仏教は現代を救ふ力在りや

「時事論壇」

釈迦牟尼如来が何故仏法を開始されたかと云ふに、元来、釈迦出現より相当古い頃から、バラモン教が盛んであって法界の覚りを得る方法として、非常な難行苦行をしたのである。今日絵画彫刻等に残って居る羅漢像を見れば解る如く、彼等は皆バラモン行者であって、其苦行の姿を写したものである、有名な面壁九年石座をした。達磨もそれである。それを観た当時の釈尊は、大いに歎いてかかる苦行に寄らずして大覚者となり得る法もあらばと説(ト)いたのが即ち仏法である。

故に、従来と比べて苦行に換へるに、易行(イギョウ)の道を説いて呉れた釈尊に対し、当時の民衆が其徳を讃称えたのは無理のない事である。

然し良く考えてみるがいい、二千五百有余年前の印度の社会を、当時の印度人は自然に稔る米を果実を喰って森林や山に入り冥想に耽って居ても生きて行かれたのである。今日の如く英国の搾取も国際競争の悩みも、無かったのであるから生活苦等有り得る筈が無く至極呑気なものであって現代人の想像も付かない程であったであらふ、故に如何程浩瀚(コウカン)な物でも--何年掛らふとも経文を読んで、悟りを得やふとしたのは当然の事である。

然るに現代の日本を、社会を生活を観るが良い。二千五百年以前の印度人と比較が出来やうか、幾ら悟りを得たいと云って八万四千の経文を読む事は絶対不可能で、半分も読まない内に、餓死して仕舞ふ、そうして梵語を漢訳したそれを、漢文を殆んど学ばない現代日本人が読むのであるからさっぱり意味が判らない、仏教学者でさえが、人に依り幾多解釈の相違がある位で在るから、何ぞ大衆が真解する事を得んやである。

読む時さへも有たず、読めど解釈出来ぬといふ、古代外国産の代物を持って今更現代人を救ふなど言ふは、余りに時代錯誤の甚だしきものではないか、此意味によって、吾々は仏教は勲功のあった国宝的遺物として、ただ保存するだけに止めてをいて、現代に、日本人に適合した溌溂とした新興宗教を求めなくてはなるまい、それが真理ではなからうか。

(東方の光七号 昭和十年八月十六日)