観音運動の目標たる大光明世界とは善の栄ゆる世界なり

熟々歴史を振返って観る時、誰れしも解し難き重大事のある事を知るであらう。そは何かと言ふに各時代に於て、外国は別として我日本だけに視るも忠臣義士烈婦等の殆んど悉くと言ひたい程最後は不倖(フコウ)に終って居る。然るに反対に如何(ドウ)見ても、悪人としか思はれぬ者が、譬(タト)へ一時なりとも相当の栄を見せてゐるのである。

彼の大楠公を菅原道真を名和長年を児島高徳を高山彦九郎を西郷隆盛を吉田松陰を大久保利通を伊藤博文を、斯う数へて見たなら切りが無い程である。斯う言ふ事に気の付かぬ人も有ろうし、気が付くが其根本を知る人は殆んど無いであらう、それを私は天下に普(アマネ)く知らし度いのである。

其れは今日まで何千年間、世界の神霊界を自由にして居たのは、実に邪神であったのである。此神幽現三界の関係を詳説するには、孰れ適当の方法を持って説くつもりであるが、今は読んでだけ置いて貰へば良いのである。

神典古事記にある、天照大御神が岩戸隠れをなし給ふた事は、神話や仮空的伝説では断じて無いのである。即ち前述の邪神の横暴と言ふ事と、此の事とは密接なる関係があるのであって、其事あって以来世は常暗となり邪神の跳躍に移ったのである。其れが為めに人は善を行ひ正を踏むと雖も、真に幸福になり得ない。成程死後霊的には神として尊信はされ得るが、生ある内、体的の幸福は得られ難いのであった。

何故なれば善は強圧者たる悪に相背馳(アイハイチ)してゐるからである。然し乍ら天地の法則は厳として存ずる以上、譬へ悪は一時体的に栄へても最後は滅びると言ふ事実は、之も歴史に明かなる処である。

是を更に検討して見る時、悪は一時は栄えるが時の経過に依って滅ぶ、善は一時は虐げられるが最後には輝き、悪は体的に栄へて霊的に滅び、善は体的に滅んで霊的に栄へる事と成ってゐる。

然し乍ら之は不合理であるのみならず、余程具眼の士で無い限り、先づ大衆に在っては譬へ一時的なりとも、光栄に眩惑されて悪を見習ふのは有り得る事である。

然るに此様な世界が何千年続いた結果、之が真理であるかの様に思はれ否真理では無い迄も如何する事も出来ない実在の様に解する結果、世界は何時に成っても不義不正が絶えないので上下概ね腐敗堕落する様になるのである。

彼の宗教家、教育家等でさえ表に善を装ひ蔭に不正事を行ふ等は、此理に依るからである。故に生れ乍らにして不正直等の悪に属する事の絶対に行へ無い人がある、さう言ふ人は、終に視るも哀れな敗残者となって、不倖な境遇に墜ちる例も能く睹(ミ)る処である。

然るに斯の如き不合理の世界は、今や終滅期に臨んで居るのである。其れは何か、東方の光が現はれたからである。観世音菩薩が秘め置かれた、絶対の正義の力を揮はれる時期が来たからである。其れは言ふ迄も無く善の栄える世界、悪が滅びる世界である。善を行ふ人が霊体共に栄ゆる世界である。

東方の光は太陽の光である。この光に因って世界は白昼と化するのである。数千年に渉る夜の世界は、茲に終焉(シュウエン)を告げんとするのである。夜の世界では悪魔の潜伏する暗さがある。然し白昼--太陽の輝く下(モト)には如何なる悪も暴露する。偶々汚穢不正不義等が発芽せんとするも、灼熱に遇って枯れて終ふ、バクテリヤも死滅する。

噫斯くの如き理想世界が今や眼前に転回せられんとするのである。東方の大光明は万界の暗を蹴って暉き出でんとするのである。

(東方の光七号 昭和十年八月十六日)