『時事論壇』
我大日本皇国は、万邦無比の尊厳なる国体であり、畏くも三千年来、皇統連綿として、微動だも無き御皇室を戴き、九千万同胞は、他邦に類例なき御洪徳(ゴコウトク)に浴しつゝある事は、洵に称えても称え尽せぬ極みであり、国民の至情として弥が上にも、大御稜威を称え奉り申したいといふ事は、無理からぬ事ではあるが、それに就いては、大いに慎厳なる態度と、清浄なる心境を以て臨まなければならない事を深く思ふのである。
最近天下の大問題となった、機関説問題の如きは口にするさへ不快の極みであるが是等の事が之程大きな問題になるといふ事は原文は勿論だが我国民の或者に精神的間隙があるからであって実に慨嘆に堪えない次第である。
我一天万乗の皇上陛下に於かせられては、炳(ヘイ)として天日の如く、絶対の権威にましますを以て、実は、論議とか、問題に触れ奉る事すら、それ自体が、業(スデ)に不敬に渉る懼れがあると思ふのであって、仮令些かなりとも、論議の的になし奉るといふ事は、実に畏れ多き次第ではなからうか、此故を以て、如何なる権威ある学説と雖も、太陽の前の螢火の如きものであるから、それ等の異端邪説に迷はされ、謬る如き国民は一人もある筈がない、否決して在ってはならないのである、若し、ありとすれば、そういふ非国民は、外国へ行って生活するがいいであらふ。
随而見様によっては、今回の如く、ヒステリック的に、囂々(ゴウゴウ)たる天下の問題になるといふ事は、国民精神の脆弱を意味し、もう一つには、取るに足らぬ学説を重要視する傾向をさへ生ぜしむる懼れがあり此点、余程深く考慮されなければならない事を、世の識者に望み度いのである。
又岡田首相の採った態度をみると余りにも不甲斐なく、最初から今日迄、遅疑逡巡(チギシュンジュン)何等定見なく、国民を指導啓発すべき責任の立場にありながら、問題の帰趨を明確に指示し能はざるが如く、実に情なく思ふのは私一人ではあるまい、それではどうすればよいかといふと、もっと早い内に於て、国民を愆(アヤマ)るべき邪説の点丈を禁止し、美濃部氏に対しては今後の戒飭(カイチョク)を与へると共に、再びせざる誓約をする位な所であっさり解決した方が適当の処置ではなかったかと思ふのである。
もう一つ言ひ度い事は、近時、無論右傾ではあるが、其運動なり宣伝なりする場合、余りに、皇室の事に関する事を、蝶々するが為、何となく自己の目的の為に、尊厳を濫用するやうにもとられ、杞憂(キユウ)かも知れないが、洵に畏れ多い感じすらするのである、又小学校の生徒にでも教ゆる如く、尊厳を強調しなければ解らない程の我国民ではなからふと思ふのである、如何なる善事と雖も、或程度を越える時、其処に不純な感じが起る事は無いとは限らないのであるから、事皇室に関する場合、当事者たる者は、深甚なる省察を以て心中何等疚(ヤマ)しき点なきやを充分検討し、一点の私心なき心境に立ちて、初めて筆を執り、言葉を発するのが、真の国民としての心構えではなからうか。
皇室に、関するが故に、誰しも云々する能はざるを、見越して、自己の目的に便せんが為になす事が些かなりともありとすれば、是等は赦すべからざる一種の不敬ではなからうか、古諺(コゲン)に曰く「過ぎたるは尚及ばざるが如し」と、洵に至言なる哉、我等臣民たる者、宜しく此点に留意し、国民の本分に、些かたりとも背く処なき様、充分、戒心すべきであると思ふのである。
(東方の光六号 昭和十年六月)