観音心は即大和魂の根元なり 之に依て白人の迷盲を打破せよ

抑々我国民は祖先以来、忠孝義烈、貞操等の道義観念が旺んであったことは、到底、他国民に見ない所であって今に至るも、忠臣義士、孝子烈婦の涙ぐましい、美談逸話が、我々の魂を、如何に鼓舞激励しつゝあるかは、蓋し想像以上大なるものがあるであらう。勿論、是等の事蹟悉くが、大和魂の発露である事は、言ふまでもないのであるが、今吾等が提唱せんとする「大和魂即観音心」なるものは、別方面であって、其目的とする所は、大和魂の再認識であり、世界的拡充に外ならないのである。

大和魂とは、読んで字の如く、大いに和する、即ち、大和合心であり、大調和道である。飜って、吾等祖先が、歴史の上に、如何に活躍したかを見る時、其処に、一種独特の或物を、見出すであらう。夫は何か、戦国史を見る時、多くの戦の場合、国内戦にしても、国外戦にあっても、その殆んどが、大義名分を本としないものは、ないのであって、彼の外国の歴史にみるが如き、一英雄豪傑が、自己の野望を満足さす為、多くの精霊を犠牲に供したことなどに比べて、天地雲泥の差があるのである。

彼我の武器を見ても別る如く、彼は、一人でも多くの敵を殺戮(サツリク)すべく苦心努力の結果、ダイナマイトを発明し、今日見るが如き一瞬にして、何千何万人を殲滅(センメツ)せしむべき実に恐るべき、武器となったのであって、我国の古への武士が、守らんが為に武を練り、陣中と雖も、詩歌を楽しむといふ床しさや又は武具の名工が、天下泰平を思念しつゝ、謹作し、その拵(コシラ)へ等、一個の芸術品化せるにみても、その精神的発露の上下優劣が、はっきりしてゐると思ふのである。

斯の故に、彼は覇道(ハドウ)によって、権力を以て、民を治めるのに反し、我は皇道により、陛下の大御稜威により、克(ヨ)く民は悦服し、好く治まるのである。故に、彼は治めるのであって、我は治まるのである。今日、新しい政治形態として、相当の憧憬を持つファッショも、ナチスも、実は「新しい衣」を着せた覇道に外ならないのである。

随而どうしても、全世界をして真の平和楽土にするには、此日本の道義を根本とせる、上御一人の大御稜威に全世界を洽(アマネ)く光被し全人類が、心から悦服するのでなければ、絶対に、実現する筈がないのである。之が「大家族主義」であり、大和合である。言ひ換へれば、之が日本精神即ち大和魂である。であるから大和魂には、理論も、弁證法もない、大慈悲と感謝報恩のみである。恰度、嬉しいとか、有難いとか云ふ場合、又は子が可愛いとか、人を恋するとかいふ時に、何等理屈がないのと同じ理である。

今述べた、大和魂こそ即観音心であって夫を行動に表はすことが、観音行であり、夫によって一切が解決し、光明世界が建設されてゆく力こそ「観音力」であるのである。故に、我国今後の国是としては一方、如何なる国と雖も、犯すこと能はざる武備を、儼として充実すると共に、他方外に向っては、愈々大調和の精神を発揮し、弱国に向っては、飽迄大慈悲心を以て相扶くると倶に、強国に向っては、私心なき世界平和の方策を理路整然と主張し、一歩も退かぬといふ、勇猛心を以て臨まなければならないのである。

斯くして現在みる如き、欧米の表裏反覆常なき斯瞞的、平和軍縮政策が、却って反対に戦争を招来する、結果となるので、現に今日々の新聞電報に見る如く、又しても欧洲大戦の二の舞を、演ずる恐れある危険なる空気を醸成しつゝあるに見て、彼等が如何に、浅慮愚盲(センリョグモウ)なるか、之等迷夢を打破すべき、正論を、どしどし彼等に対して、吹き込まなければならないと思ふのである。

之が、観世音菩薩の本願であって、大和魂の世界的発揮であり、それが、日本人に課せられたる「大使命」でなければならないのである。

(東方の光六号 昭和十年六月)