観音運動は日本文明創造の先駆なり

抑々我国今日の文化は往昔印度及び支那文化を輸入し、其後に到って、西洋文化を短期間に吸収されて成った如く見ゆるが、仲々そう簡単なものではなく、其由って来たる根本は、深く且大いなるものがあるのである。

然るに、世の識者の中には往々、日本文化は、殆んどが外来文化の模倣である如く思惟し、日本独自の文化は存在せぬとなし一にも二にも、外来の文物を崇拝して熄(ヤ)まず、斯種の人々がインテリの大部分を占めて居り一方、之に反感を抱きつゝ、飽迄、国粋主義一点張の人々のあり、此種の人々は、口を開けば、我国には太初以来惟神の大道、即ち、日本精神の確固たるものあれば、今更外来文化を讃美するとは、甚だ不見識なりと言ふのである。

此両者の説も、慥(タシ)かに反面の真理は在るが孰与(イズレ)も偏見的見方であって、前者は、既往に於ける表面的事実のみを見て、その内観に触るるの事なく後者は又、現在の事実に眼を蔽ひ、感情的独善的に解釈して得たりとするの類である。

元来日本は、建国の当初より、或偉大なる国家意図を有してゐるのであって其最も顕著なる実證とも謂ふべきは、万邦に比類無き万世一系の大君を戴く事であり、次は、古より外来の如何なる文物をも、能く吸収し、調和して日本独自の物とする抱擁と融和性に富む事であって、彼の仏教が、本国の印度に滅びんとするに不拘、我日本に於て、其華を咲かせつゝあるにみても、首肯さるる所であらう。

是等の事実に依ってみても我建国意図は已に示唆されてゐる筈である、其建国意図こそ、我日本が、最後に創造する、日本文明のそれであって、即ち東方之光を以て、全世界を遍(アマネ)く、光被救匡(コウヒキュウキョウ)し、万民和楽の黄金時代を現出する、其事でなくてはならない筈である。

本来東洋文明は経の文明、即ち精神文明であって、仏教、マホメット教、儒教等の思想より成り、精神的に偏重する結果、禁欲主義に陥り、其余りに物質否定の当然の帰結として、今日見る如き、白人の蹂躙に委し、亡国的運命に甘んずるの余儀なきに、立至ったのである。

然るに、一方、西洋文明は右と全く反対であって、彼のイスラエル民族より発生したるキリスト精神と、科学的に智能卓越せる、猶太人の頭脳より出でたる、唯物主義とに依って、緯の文明を生み、今日見る如き物質文明の絢爛時代を来し、之に依って世界を独占せんとする迄に到ったのである。

然し乍ら、両者の現在を視るに、前者は、唯心主義に偏重の結果、亡国に瀕し、後者は、弱肉強食的闘争の惨状に喘ぎ、唯心唯物の両主義の謬りを遺憾なく暴露し、人類は愈愈幸福に遠ざかり、世界の恒久的平和等は、痴人の夢としか思はれざるに到ったのが、現在の世界状勢である、是に於て、此末期的文明を更生転換せしむべき、一大生命力を必要とする機運は、刻刻に醸成されつゝあるのである。

既往何千年に渉る、歴史的過程を、事実を、活眼を開いて視よ、夫は、或高度の文明を生(ウ)まんが為めの準備工作ではないか、而して、如何なる外来文化をも咀嚼し、不思議な同化力を有って、今や、全世界に雄飛せんとする世界最優秀の人種こそ我等の同胞日本人ではある。

噫吾々日本人の使命や重且大なりといふべきである、それをば認識しない人々が、日本人を、模倣の天才と評して来たのである。さらばといふて惟神の大道のみにては、日本文明は創造されない。何となれば、之を国際的に迄する事は容易ならぬ事であらふからである。

我観音運動は、唯心主義に偏せず唯物主義に傾むかずして、両者を能く調和融合して以て変通自在なる観音力の発揮である、大日本文明を建設せんとする光である、今や、内外緊迫せる非常時は、何を物語ってゐるのであらふか、又、全世界の人類は、一大超人間力の出現を待望してゐるではないか、故に、観音運動なるものは、出づべき時に出で顕はるべき時に顕はれたる、太陽の光である天意である、之に依って此混沌たる世界を、帰趨に迷へる全人類の迷蒙を打破し、一大指針を示し文明の方向転換を誘致せんと図る、目的の大運動とも言へるのである。

今や生れんとする日本文明は精神主義を経となし、唯物主義を緯として結合したる、十字形文化であって、即ち、金 (マンジ)(ギャクマンジ)字文化である、神の文化、神霊文化である、苦悩に代る歓喜の文化であり、闘争に更る、和合の文化であり、仮定の文化でなくして、実相の文化である、無秩序の世界をして統制ある世界たらしめ、世界を打って一丸となし一の君主に依って統治さるるのであり、理想世界建設への第一歩である。

(東方の光五号 昭和十年四月八日)