宗教と自由

今日迄の宗教をみると、宗教には殆んど自由がないといってもいい。其の多くは厳重なる戒律に縛られて身動きも出来ない位で、之が宗教本来の姿と思はれて来た。そういうのを深く検討してみると全く信仰地獄の観がある。

そういう宗教に限って何をすべからずとか、何をすれば神様の御怒りに触れるとか罰が当るとかいう戒律づくめで、自由なゆとりのある生活など見る事が出来ない。そんな訳で神に対する観念は敬愛とか親しみなどは殆んどなく、ただ恐れ戦いているばかりだ。

そればかりではない病気も貧乏も家庭不和も、年中附纒って放れない。それ等の苦悩に対し其教師は屹度斯ういう、「貴方の家には先祖から罪障が多い、苦しむのはその為であるから一生懸命罪障消滅をしなければいけないが、貴方は未だ信仰が足りないから苦しみが絶えないのだ」と斯ういうのである。

中にはあまり苦しみがなくならないので信仰地獄から抜けようとすると、決って言う事には「貴方が此の信仰をやめれば、一家は必ず死に絶える」と脅すので抜ける事も出来ず、現状で我慢出来ず進退谷るという人をよく見るのである。

信仰の目的は、天国的歓喜の生活者となるのであるに関はらず、右の如き、凡そ反対な結果であるという事は何の為であるかというと、そういう低級宗教を長く続けていると、肝腎な智慧は鈍化し理性を失い、善悪正邪の判別など出来なくなるのである。そうして斯ういう人と唯物主義者とを比べる時、結論としてどちらも安心立命など得られない事は、百年河清を待つに等しいと言ってもいい。

以上の意味に於て吾等は唯物主義者を救はなければならないと共に、地獄的信仰者をも救はなければならない事を痛感するのである。

(光新聞四十五号 昭和二十五年一月十四日)