己れの利害を本位とし 社会の公器性を失う 読売新聞へ再抗議文

過般の読売新聞のデマ報道に対し、同じく迷惑をこうむった宗熱海市長と併行、本教でも独自の立場をもって読売新聞社編集責任者に対し、該誤報記事の正誤を申し込んだに対し、宗市長へは謝意を表したのにも拘らず、本教団に対してはなんらの誠意をも披瀝せず、どこ迄も頬冠りの無責任な態度を持しているので本教ではやむなく同社に対し次の如き再抗議文を発送、同紙の新聞道に立脚せる紳士的態度の表明方を要請した。

再抗議文

前略、旧臘十二月十四日、本教団に関する記事に対し、十九日抗議文を提送したるに今以て御回答なきは如何なる理由であるか、御質ねしたいのである。而も当市宗市長の抗議文に対しては直ちに謝罪状を出し、再度の抗議文に対しても即時謝罪状差出され、三度目市長はGHQ新聞課長インボデン氏に抗文書を提出したる処、貴社に於ては急遽幹部会議を開き、その結果謝罪の為代表記者が市長を訪問し、頗る鄭重なる謝意を表された事実は、詳細市長から聞及んだのである。

右の二者を按ずるに、貴紙の記事の内容は市長に対するよりも本教団の方が多分に迷惑を蒙る点あるに拘はらず、本教団に対しては何等の挨拶なく今日に及んでいる。という事は甚だ解するに苦しむ処である。

察するに、GHQの権威と市長の肩書に恐れての結果である事は誰が眼にも映じない訳にはゆかないであらう。何となれば本教団の方には右のような懼れがないからであるとすれば貴社の責任感は利害の打算以外何物でもないという事にならう。

右の事実を基礎にしてみるとすれば、貴社が新聞発行の意図は寔に不明である。善悪正邪には無関心で、ただ自社の利害のみを本位とするとしたら、新聞紙の使命たる社会の公器ではなく私器というの外はない事になり、有益の存在か有害の存在か、判断に苦しむ事にならう。

恐らく本教の抗議文に対し謝罪する事は面目に関はる、といって本教が指摘した事実は真実である以上否定も出来ない、というヂレンマに陥って返答が出来ないのであらう。然し乍ら貴紙の如き大新聞が本教に対して書いた数回に渉るデマ記事が、如何に本教数十万の信徒を侮辱し被害を与えるかは測り知れないものがある。

吾等と雖も敢て事を好みたくはないが、貴社の誠意なき場合は止むを得ず適当の手段をとらざるを得ない事にならう。随而此問題に対し貴社に於ても充分調査の上、事実相違の場合は取消文掲載と共に将来を誓約されん事である。何となれば昨年七月二十日のデマ記事に対し、其後取消文を出しておきながら、同年十一月三日同様記事を再び掲載した事によるからである。

尚誓約は「今後、本教団に関する限り嘘を書かない事」の一事で結構である。次に附加えたい事は今後如何なる疑惑に対しても充分の調査をされたい事である。万一調査の結果本教に不純又は欠点のある場合は当団に於ても卒直に謝意を表し改むるに吝かでない事は勿論である。

(光新聞四十五号 昭和二十五年一月十四日)