人間を愚にするな

今日口を開けば新宗教は迷信邪教であるというジャーナリスト等に注意したい事がある。それは彼等の思う如き、迷信やインチキ宗教であるとすれば、多数の有識者を初め数十万に及ぶ信徒が、熱烈な信仰を傾ける筈がないではないか。その点を心を落着けてよく考えるべきである。今日の世智辛い世の中に北海道から、九州から、自観先生の一時間の講話を聞く為に、高い汽車賃を払い、暇を潰し月に二度も三度も来るという事は何かなくてはならない筈である。その理由の一つ二つをかいてみよう。

永い間病苦に悩み、大病院も名医もありと凡ゆる療法に手をつくし、莫大な療養費を費し命旦夕(タンセキ)に迫った者が、本教によって起死回生の御利益を得たり、懐疑に煩悶懊悩死を覚悟した青年や、不幸のドン底に陥った人達が本教によって光明を認め一転歓喜の境地に救はれた者等は、全く本教によって生命を与えられたのであるから、その感謝感激が熱烈な信仰を生むのは当然である。決して気紛れや思いつきでは其境地に達する事は出来よう訳がない。

君達はそれ等を全然知らないのである。それは頭から迷信と決めて了って、知ろうとも触れようともしないのだから所謂縁なき衆生と見るの外はない。それ等の事実に眼を蔽い、一般人に向って口に筆に迷信邪教と宣伝するのであるから、実に危険千万である。本当からいえば未知なものは、いわず書かず沈黙すべきに拘はらず、さも新宗教の底の底まで見通しているかのように、大所高所から観察批判する態度は、吾等から見れば迷蒙邪記者でしかない。

随而、迷信邪教に走る愚を嗤うよりも、君等自身を嗤うべきである。

以上のような訳であるから、吾等からみれば君等が常にかけている黒眼鏡を外されたいのである。そうすれば甚だ容易に真相を把握し得らるるのである。然らば右の黒眼鏡とは何ぞやと言えば、唯物思想という眼鏡である。

(光新聞三十七号 昭和二十四年十一月二十六日)