現世利益と未来利益

世間宗教批判の場合、現世利益と未来利益とどちらを欲するのが本当かという、その是非に迷う者もある。というのは一般世人は例外なく現世利益を欲するに拘わらず、宗教家やインテリは口を極めて、現当利益は低級宗教であり、未来利益を目的とするのが真の宗教でありと言うのであるが、之ほど可笑しな話はあるまい。何となればその批判者自身にしても現当利益が欲しいに決っている。もし現当利益が欲しくないとしたら、その人は先づ精神病者でしかあるまい。

死んでから先の未来の利益だけが信仰の対象としたのは、既成宗教によくみらるる説で、死後阿彌陀様の傍へ往けるのを唯一の楽しみにするのである。之等も決して悪い事ではないが、今日の人間としてそれでは満足出来る筈はない事は判り切った話である。何だ彼んだといいながらも現当利益がなければ信仰する人は恐らくあるまい。

とはいうもののその現当利益を与えるという事が問題である。マサカ眼に見える物質の力では社会事業で信仰とはならない。どうしても見えざる力、即ち奇蹟による物質的利益でなければならない。とすればその因って来る根源は何かというと、いうまでもなく神仏の力である。吾等が常にいう観音力である。之に因ってのみ不可視の神仏の実存を知り得るのである。此理によって、如何に表面を立派に装い形式が完備していても、高遠なる理論を審かに説いてみた処で、そういう宗教が発展する筈はない。

本教が短時日に前例のない発展をみつつある事は、右によって考えれば明かにわかる筈である。又よく言われる終戦後人心の混迷に乗じて迷信邪教を流行らせ、うまい事をするというように新聞等によくかくが、之等は人を愚にするのも甚しい訳で、大衆をあまく見過ぎると言ってもいい。之は堪能なる政治家がよく言う言葉であるが「大衆の眼や声は決して馬鹿には出来ない、事実天の眼であり、天の声である」というが全くその通りである。

それのみではない。大衆が苦し紛れにその宗教に縋ったとしても、その苦悩の解決が出来なければ、直に離れてしまうのは決っている。従而教線の発展などはありよう訳がない。特に、昔の未来利益につられて信仰をする善男善女などは今日の社会にある筈はあるまい。而も金詰りの今日相当の費用と忙しい時間を割いてまで迷信邪教に囚えられるようなものは先ずないといってよかろう。

以上のような現在の社会事情を全然把握出来ないで、唯単に大衆は凡庸愚劣なりと即断してかかるジャーナリストの頭脳こそ問題なのである。故に吾等からみれば大衆こそ意外に理解力があり、賢明さのある点に鑑み、実に心強く思うのである。それに反し大衆指導者としての役割をもつジャーナリストの諸君の無責任極まる丁髷的頭脳には悲観せざるを得ないと共に、如何に彼等を啓蒙すべきやと日夜苦慮してゐるのである。

以上はジャーナリスト諸君に対し、余り赤裸々に言い過ぎ不快を感ずるやも知れないが、吾等は人類救済の建前上、やむにやまれず苦言を呈するのである。此点大いに寛恕(カンジョ)あらん事を希う次第である。

(光新聞三十六号 昭和二十四年十一月十九日)