インチキの名を返上する

よく新聞などに 新宗教を目してインチキという名を冠するが、勿論本教も其一人であろう。処がインチキという言葉は社会通念からみるとマヤカシモノ即ち本物でない-という意味にとれるが、之に就て本教としてはどの点がインチキであるかを釈明する事も満更無駄ではあるまい。

本教も宗教である以上、信仰によって御利益を頂き救はれ幸福者となるので、それによって素晴しい発展を遂げつつあるのは言う迄もないが、特に本教に於ては幸福の原であるべき病難を解消する事に最も力を注ぎ絶大なる効果を挙げつつある事実で之は自画自讃としても一点の誤りはあるまい。とすればインチキなる名称は全然当らない事になろう。

そうして本教に救を求めに来るものの大部分は重難病の末期のものばかりで死の一歩手前といってもいいのが殆んどである。それが一転して恢復に向い、決定的死の運命から復活の歓喜を得らるるのであるから、その感謝はどうしても熱烈なる信者とならざるを得ない事になる。此結果本人は固より近親者も知人も、驚喜の感激は如何なる反対を押切っても入信する事となるのは当然である。而も本人の発病当初から、本教の救を求めに来る間際までに費やしたる療養費は勿論、その苦痛と不安は想像もつかない程のものがあろう。

以上の事実によって厳正公平に検討するとすれば、その結論は何と下していいであろう。とすれば確実に治る本教浄霊がインチキで治し得ない療法がインチキでないとすれば、石が流れて木の葉が沈むという訳である。

以上によって、吾等はインチキの名を茲に返上するのである。

(光新聞三十六号 昭和二十四年十一月十九日)