序文

此著は私が弍拾数年間に渉って探究し得た霊界の事象を、出来るだけ正確を期し書いたもので、勿論作為や誇張などは些かもないつもりである。

抑々今日学問も人智も進歩したといふが、それは形而下の進歩であって、形而上の進歩は洵に遅々たるものである。文化の進歩とは形而上も形而下も歩調を揃えて進みゆく処に真の価値があるのである。文化が素晴しい進歩を遂げつつあるに拘はらず、人間の幸福がそれに伴なはないといふ事は、その主因たるや前述の如く跛行的進歩であるからである。之を言ひ換へれば体的文化のみ進んで、霊的文化が遅れてゐたからである。

此意味に於て私は、霊的文化の飛躍によって、人類に対し一大覚醒を促がさんとするのである。とはいえ元々霊的事象は人間の五感に触れないものであるから、其実在を把握せしめんとするには非常な困難が伴ふのである。然し乍ら無のものを有とするのではなく、有のものを有とする以上、目的を達し得ない筈はないと確信するのである。

そうして此霊的事象を信ずる事によって、如何に絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも明かである。故に如何なる信仰をなす場合に於ても、此霊的事象を深く知らない限り真の安心立命は得られない事である。それに就て稽(カンガ)ふべき事は、人間は誰でも一度は必ず死ぬといふ判り切った事であるに拘はらず、死後はどうなるかといふ事は殆んど判り得なかった。考えてもみるがいい、人間長生きをするとしてもせいぜい七八十歳位までであらうが、それで万事お終ひであっては実に儚ない人生ではないか、之は全く死後霊界生活のある事を知らないからの事で、此事を深く知り得たとしたら、人生は生くるも楽しく死するも楽しいといふ事になり、永遠の幸福者たり得る訳である。

以上述べた如き意味に於て此著をかいたのである。

(自観叢書三 昭和二十四年八月二十五日)