神と佛の文字

此二つの文字をあまり解釈したものはみないようである。然るに此二つの文字位人間が尊敬し、憧憬するものはないのであるから、一応知るべき必要があらう。その意味を私としての見解を述べてみる。

先づ、神の文字は、示偏に申とかいてあるが、大抵の人は、此申の字が解し得ないようである。之はサルではない、田の字の真中の経の棒が上と下へ抜けてゐる。そうして田の字とは、○に十から起ったもので、○に十とは、○は地球であり大地である。

十の字はいつもいふ通り経と緯の棒の結んだ形である。経は火で緯は水で、火と水は、火(カ)と水(ミ)であるからカミである。大地は神が主宰し給ひ、神の世界である。神は無始無終であるから、上下の棒が象徴してゐる。勿論右の意味を人類に示さなくてはならないそれが示す偏である。

次に佛の字は人偏だから、人間の向上したものが佛である。つくりの弗はフツ又はドルと読むがそれとは関係はない、弓の字を二本の経棒が貫いてゐる。元来弓の字は月の意味で、弓の形は半月で、俗にいふ弓張月である。佛教はいつもいふ通り、真如の数即ち月の教である。それへ経の二本の棒は、十の字がトケた形である。佛の言霊はホドケで神は結びであるとは常に私がいふ処である。

又二本の棒の別な意味は、佛教は経の教であるから緯がない。経は霊で精神主義であるから、物質否定となる。之が彼の禁欲主義となり山岳佛教や禅の修行等にも表はれてゐるのである。

以上で大体、分ったと思ふ。

(光新聞三十号 昭和二十四年十月八日)