所謂、迷信の解剖 信仰は飽く迄冷静に

ともすれば、本教団に向って迷信の言葉を浴せるが、一体迷信の真の意味は何であるか、これを解剖してみよう。

勿論、迷信とは正信の反対である。とすれば迷ひ迷った揚句、正しからざるものを正しいと誤り信ずるといふ事であるが、その正しからざるといふ意味は果してどういふ解釈であらうか、之を先づ徹底してみよう。

例えば信仰上利益のないものを利益のあるように思はせたり、病気が治るように見せかけてその実効果がなかったり、その宗教の創始者である人物を特別に生神様の如く信じさせたりするがその実は普通の人間であって巧妙な作為でそう思はせやうとする等である。以上は勿論迷信の説明である。

処が病人に対し、医療が治ると請合ふので患者もその医師に絶対の信頼を置き、多額の費用や長い時日を費したる結果、予期に反し治らないばかりか死の転機にまで及ぶといふ事も、又年年多額の国帑を費し、結核療養所を数多く作り、大いに努力するに係はらず、事実は更に結核患者が減らないに拘はらず、何時かは解決さるるといふ、頼りない希望を以て継続しつつあるといふ事も、厳格なる意味からいえば立派な迷信であらう。

然し之等は患者が医学を迷信するよりも、医家が医学を迷信してゐるといふ方が当ってゐるかもしれない、いはば善意の迷信である。

処が同じ迷信といっても計画的に人を騙すのとは大いに異り実際は良心的に社会人類の為に尽すといふ動機善であるから非難する事は出来ないが、実を言ふと此善意の迷信は、其迷信者自身が可なりと思ふ強い信念がある以上、多数者を同化する力も強いので寧ろ社会に与える弊害は大きい訳である。

以上の理によって本教を解剖してみる時、本教が行ってゐる救の業は、言ふ処と行ふ結果とに些かの矛盾がないばかりか、寧ろ言ふ以上の良果を挙げてゐる以上、迷信の言葉は当らない。

ただ今日まで本教の救の如き素晴しい例がなかったから信じられないだけの事である。人間は凡て経験にない事は信じられないといふ弱点があるが、之もまた致し方あるまい。処が始末の悪い事は、一犬吠ゆれば万犬之に習ふといふ諺の通り、少し信用ある人が些かも触れてみた事のない癖に非難の言を発すると、群衆は附和雷同するといふ群衆心理で、之が厄介千万である。

然しながら本当のものは如何に抑えつけられても、非難されてもそれは一時的で、遂には世の信頼を受ける事になるのは真理である。「信ぜよ、さらば与えられん」といふ事や「信じなければ利益がない」などとはよく言はれる言葉であるが、本教に限ってそういふ事は決して言はない。寧ろ反対に大いに疑へと言ふのである。

何となれば初めから何等の利益も認めないのに信ずるという事は己を偽る事である。何程疑って疑り抜いても疑り得ない真とすれば、信ぜざるを得ない事になるのは当然である。そうして本教には特に奇蹟があり利益があり過ぎる程である。本教の発展が何よりもそれを證拠立ててゐる。

然し斯ういふ事も心得ておかねばならない。世の中には一の利益があると、三にも四にも拡大して有難がる人があるが、これも本当ではない。いはば利益の魔術にかかるので、この点よく間違い易いのである。故に一の利益あれば一だけ信じ三の利益あらば三だけ信じ十の利益があれば初めて絶対的信仰に入ればいいのである。信仰といえどもいささかの不合理も許されないからである。

今一つ注意すべき事は信仰は飽迄冷静を保たなければならない。有難さのあまり熱狂的となり常軌を逸する人が往々あるが、斯ういふ信仰こそ盲信であり狂信であって、斯様な信仰者を第三者から見れば、其宗教を疑わざるを得ない事となり反って救世の妨害者としての罪を犯す結果となるから、大いに慎しまなければならない。従而正しい信仰はどこまでも常識的で品位を損せず、世人から尊敬を受けるようにすべきである。

(光新聞九号 昭和二十四年五月十四日)