宗教と医学

去る三月一日岐阜県高山市に於て「迷信と宗教」の題目の下に街頭録音があった。超えて三日及び五日に名古屋放送局より全国中継を行ったが、此放送の狙ひは勿論本教であった事に間違ひはない、又岐阜愛知及び静岡地方の新聞紙にも頻りに本教団を問題にした記事が出てゐる。

そうしてその何れもが本教と病気との関係に就ての批判が主なるもので、医師会と本教との対照記事もあり、本教は医療の非難はしないが、医師会は本教を非難した記事が出てゐた、又街頭録音に於ては攻撃の矢を向けた二人まで医師である事を言明した。

之等によってみても医師及び医師会方面が運動の中心となって、本教の指弾に大童となってゐる事実を看取さるるのである。殊に放送の際の如きは一人の医師は官憲に対って、極力弾圧を要望してゐた位である。

以上の如く、本教を目ざしてヤッ気となってゐる事は実に不可解である。万一本教が法規に触れたり、社会に害を与えるような事ありとすれば、医師会方面で働きかけなくとも当局の役目として厳重なる取締りをする筈である。

然るに何が故に本教を目の仇にするかを熟々考えてみるに斯ういふ訳ではないかと思ふ。それは一度本教に入るや、難症重症が驚くほど治癒さるるので、その事が医家に一種の恐怖と刺戟を与えるのではないかと想像するより外に考えようがない。

とすれば全く可笑しな話である。医家としても真の目的は病気を治し、人間を健康にするといふ事が唯一の本意である以上、自己の物である医学で治らないで、他の如何なる方法であっても完全に治癒されたとしたら大いに喜ぶべきではなからうか。

否寧ろ進んで本教を衝き、その研究にまで進む事こそ医家としての本分を全うする所以ではなからうか、本当からいえば進歩せる現代医学でどうしても治らなかったものが、短時日に治癒されるといふ方法が生れたとしたら、それは実に世界の一大驚異であって空前の大問題である。

安閑として手を拱(コマネ)いたり嘯(ウソブ)いたりしてゐる場合ではない。一刻も速く此革命的療法を検討しなければならない筈であるに拘はらず、今日迄実際を見乍ら触れようとはしないばかりか、彼等は一顧だもしない。それ処か中には触れるのを恐れる者さえあるに至っては実に解釈に苦しむのである。

吾々をして忌憚なくいはしむれば、薬剤も器械も要せずして大部分の病患は完全に治癒するのであるから、今日全世界の医学者が研究室に閉じ篭り、動物試験や放射線、新薬発見等に努力してゐる事は、実は徒労に過ぎないとさえ吾等には思えるのである。

何となれば病理の発見も療法も理想的なものが已に成立し実行し、驚異的効果を挙げつつあるに於てをやである。故に本教の信仰療法が或時期に到って一般に認識されるとしたら、全世界の医学は一大革命を捲き起さずにはゐられないであらう。

そうして信仰療法の場合一般世人は、精神作用が加はるから治癒さるるとよく謂はれるが、之は実は反対である。先づそれを説明してみよう。

茲に病気に罹った場合、何人と雖も一番最初に医家の診療を受けるのが常識である。科学万能時代の今日、世間から兎や角言はれ迷信邪教と目されてゐるものに、最初から病気を治しに行くようなものは恐らく一人もあるまい。

病気は医者が治すもの、薬で治るものと昔から根強く信じられてゐる以上医療の場合精神作用による好影響は覿面(テキメン)であるから、病気は速かに快癒されなければならない筈であるに拘はらず、多くの事実は反対で捗々しく治らない。

一進一退の経過を辿りつつ医師や病院を取替えたり、入院や自宅療法を医家の指図通り実行しながらも漸次病勢は悪化し、どうにも斯うにもならない事態となるので、やむなく民間療法や信仰療法をあさるといふようになる。

処がそれでもなかなか良くならない、病勢は極度にまで悪化し、終に苦悩のあまり自殺を決意するものさえある。自殺を今日決行しようか明日決行しようかといふような断末魔の苦い経験を全快者の思出話としてよく聞くのである。而もそれまでに費した医療費其他は実に莫大に上る事は勿論で、結局多額の費用の代償として受取ったものは、死の一歩手前の悲惨なる運命に外ならないといふ訳である。

以上のような死の一歩手前まで追詰めたといふ抑々の責任は一体誰が負ふべきであらうか、何よりも先づ此事を深く考えなければならないとすれば、此責任は当然これまでに悪化さした医家が負ふべきものであらう。

然し乍ら医家として一々その責任を負ふとなったら、医業をやめるより外はないといふ事になる。そこで今一層深く掘下げてみると、実際問題として医家には責任はない事になる。それでは一体誰が負ふべきかといふと、そこに意外なる或ものがある。その或ものとは医学といふ学問である。即ちその学問に一大欠陥の伏在してゐる事を未だ知らなかったのである。

故に如何に進歩したように思はれてゐる医学でも、人類から病患を取除く事は絶対不可能である。それを簡単にいえば、医療の凡ては一方に効果があるだけ他の一方には害があるといふ訳で、専門家も一般人も効果のみをみて害の方に気がつかない、恰度秤と同様一方が上れば一方が下るといふ訳である。何よりの證拠は頻繁に新薬や新療法が表はれる事実で、其訳は真の決定版が生れないからである。特に結核に対する特効薬がそうである。

尚精神作用に就て今一つ言ふべき事がある。曩に述べた如く、信仰的と思はるる程に一般から信じられてゐる現代医学にかかっても効果がなく、遂に悪化のドン底に追い込まれ、藁をも掴みたい心境にある時、偶々何等かの機会で本教に救ひを求めようとする場合、専門家は曰ふ「病気は進歩せる現代医学の外に治るべきものは絶対にない、もしありとすればそれは迷信である」と注意を促す。

新聞雑誌やラジオ等でも、当局の言として“罹病の場合一刻も早く医療にかかれ”と言ひ、それが正しい方法であるとし、迷信邪教に騙されてはならないと警告する。親戚知人や家庭の者は「病気は医者でなくては治らない、何々博士の診療で治らないとすれば全く寿命であるから諦めるより仕方がない」といふ。然し誰しも生命は惜しい、其際勧める人があって信仰へ触れようとするが、周囲の者は極力反対する。実にあの手この手で防止手段は至れり尽せりである。

然し患者はどうしても諦められないまま信仰に救ひを求めるが最初は誰もが疑心暗鬼で恐るおそる而も極めて秘密に近寄るのが大多数の行り方である。此様な訳で、精神作用からいえば絶対的悪条件であるに拘はらず、驚くべき奇蹟が現はれ、流石の難病も一転して苦痛は軽減し恢復に向い始め、終に治癒するのである。

此実際的効果に見ても科学療法との優劣は多くを言ふ必要はあるまい。此様に救はれる人の如何に多数であるかは、その報告礼状が机上に山を成すに見ても明かで、何れもその感謝感激の溢るる心情は涙なくしては読めないのである。その一部を本紙「おかげばなし」として掲載されてゐる。

又彼等は吾々の方で奇蹟的に如何に病気が治っても理屈に合はないからいけないといふが、それは理屈の方が間違ってゐるからで、実際に治る理屈の方が本当の理屈である。

以上の如く長々と論じて来たが、結論として言ひたい事は、病気は治ればいいのである。治ればそれが真の医術で、病気が治って健康になれば患者はそれで満足し、それ以上に何を求むるであらう。

吾等は以上の意味に於て、迷信邪教の不快極まる言葉を、茲に返上するのである。

(光新聞六号 昭和二十四年四月二十五日)