宗教からみた産制問題

近来、我国に於て産児制限問題が喧しく唱えられてゐるが、原因としては勿論此四つの小さな島国に人口八千弐百万といふのだから、これはどうしても何とかせざるを得ないといふ事である。処が吾々宗教人として観る時、現代有識者等の考え方が余りにも唯物的で、それ以外に一歩も出でないといふのであるから困ったものである。これに就て解説してみよう。

一体人間は何の為に此世に生れて来たかといふ事である。此世界を構成してゐる廿億の人類はその一人々々が生れたいといふ意志の下に生れて来たのではない。無意識の間に女性の腹に宿り、無意識の裡に出産されたものである事に間違ひはない。そこで産出された嬰児が成人して、それぞれの業務に携はるのであるが其場合個々人の賢愚、特質、優劣等の差別が自然に備はり、社会構成に必要なそれ相応の職業に之も自然に従事する事になるのである。

此様にして人類社会は原始時代から今日の絢爛たる文化時代にまで発展し来ったのである。見よ大政治家になるもの、国会議員になるもの、教育者も芸術家も産業家も官吏も技師も労働者も、それぞれ専門的特性を備え、よく配分されてゐる。それが何時の時代でも一方に偏る事なく、洵に普遍的であるのは不思議ではないか。而も優れた有能者は極少数であり、下級職業者に至る程ピラミッド型に数を増してゐる。

之を例えていえば植物にしても雑草類は到る処に繁茂してをり優秀なる花卉類になる程その数が減ってゐる。樹木にしても杉、楢等の如き一般的需要のものは多産であり、高級樹になるほど其数は少ない。又金属にしても黄金の如き貴金属は産額が極めて少なく、鉄、鉛、銅の如き一般需要に必要なものほど多産であるにみても明かである。何よりも驚くべき事は如何なる時代に於ても人間の男女の数が大体半々である事である。

従而以上のような種々の自然現象を静かに観察する時そこに何を発見するであらうか。或人は之を真理と曰ひ、又或人は自然といい、哲学者は宇宙意志の表現といふであらう。然しながら之だけでは単なる現象の説明にしか過ぎない。吾人はその内面に潜む神秘を突止めなければ満足出来ない。然らばその神秘とは何ぞやという事を以下解いてみよう。

抑々人類が棲息してゐる処の此大地球と雖も其中心があり、中心には主宰者即ち支配者がなければならない。それなら一体地球の支配者とは何物かといふ事であるが、之が主の神即ち天帝ともいひ、ヱホバとも称える処の絶対者であって、宇宙意志とは此主神の意志である。此主神の意志の下に、人類社会をして無限の発展を遂げしめつつあり、未来は如何に善美なる人類社会が出現するか到底想像し得られないのである。ただ未来世界の幾分かは想像し得られる。といふのは何千何万年前の原始時代と、今日の文化と比べてその進歩の道程を振返る時、其著るしい発展ぶりに凡その想像はつく筈である。

以上の如き事実とその推理から判断する時斯うなるであらう。即ち此人類は勿論森羅万象は、主神の意図の下に生成化育が行はれてゐるといふ事である。そうとすれば人間の生死と雖も主神の意図以外にある筈はない。とすれば或地域に多数の人間が出産されるとしても、それを養ふべき食糧に不足を生ずる筈がない。勿論餓死などといふような事は夢にも想はれない訳である。

此意味に於て人口が如何程増加しても、その人口を保育するだけの食糧は必ず其土地に生産されるに定まってゐる。もし不足を来すような事があるとすれば、それは生産手段のどこかに誤ってゐる点があるからで、ただそれに気が付かないだけの事である。

仮に人間老幼婦女子をも合せて平均一人一年の米の量が一石とすれば八千弐百万の人口に対し八千弐百万石の収穫はあるべき筈である。処が肝腎の根本に気付かない為、逆に産児の方を制限するといふ逆理を行ふのであるから、天理に外れ神に対する大いなる罪人となるので、実に恐るべき事である。故に産児制限主唱者の如きは唯物的無神論者の戯言に過ぎないと言ってもいいであらう。

以上の如く全人口に対し、食糧不足といふのは農耕法の誤りであるから、私の唱導する無肥料栽培にすれば問題はないのである。それに盲目である結果、有肥栽培に専念し来った結果が、今日日本の土地は非常に痩土化したのである。然るに私のいふ無肥料栽培に転換すれば三割乃至五割の増収は易々たるもので本年の米の収穫高六千三百万石であるから三割増とすれば八千百九十万石となり、五割増とすれば九千四百五十万石となり、いとも簡単に問題は解決するのである。

故に其場合耕地を増加する必要はない。何となればそれは稲苗の一茎に対する米粒が増加するからである。面白い事は数千年前は一茎の米粒は数十粒であったのが人口増加に伴ひ漸次増加し、今日の如く普通百五十乃至三百粒位になったので、先年記録を破った彼の滋賀県の或農家は四百数十粒が出来たとの事である。

之によってみても栽培法によっては現在の二倍位は可能である。これを古老から徳川末期より明治初年頃は、今日より米粒が少数であった事を聞いた事がある。之等によってみても全く人口に必要だけの食糧は神から与えられるといふ事で、決して疑ふ余地はないのである。

之は別の例であるが、よく受孕者が結核其他の病弱の為人工流産をしなければ危険であるとなし、折角の姙娠を無に帰する事があるが、私の解釈によれば、姙娠するといふ事は胎児が成育し無事出産出来るからであって、もしその力がないとすれば初めから姙娠する筈がない-といふ見解から流産に反対し来ったのであるが、事実その為数十の実例中一人の失敗者もなかったのである。

神は出産力のない者に姙娠させるというような不手際に人間を造った筈はない。造物主は人間の考えるような浅薄鈍智ではない事を信ずべきである。

以上の意味によって、吾等は産児制限には大反対である事を、茲に言明するのである。

(光新聞七号 昭和二十四年四月三十日)