大宅壮一君に与う

大宅君、君は最近の週刊朝日に、新宗教をボロくそにケナしてゐる。然し吾等は他の新宗教は知らないから本教についてのみの反駁をするのであるが全文を通じて実に感情的雰囲気がみちみちとしてゐる。悪口せんがための悪口である書き振りは誰が眼にもそう映るであろう。

例えば自観先生の十数年前の不遇時代の些々たる事まで克明にかいてゐる。何の必要あってそんな古い事を事新しくかくのであろう。君の心事を解するに苦しむのである。君も錚々(ソウソウ)たるジャーナリストである以上、最も公平に批判すべき立場であるを忘れているのではないか。まさか老(フウ,ホウ)のせいでもあるまい。どうみても近頃流行のただ読者の興味心に迎合さえすればいいという、低級雑誌のそれと同様である。

吾等は常に新聞界の王者として相当の敬意を払っている朝日の週刊誌上、今回の記事を読んでは失望する事大である。ここで断然警告を発したいことは唯物主義の社会に与える害毒である。本来唯物思想の根幹を成しているものは“見えざるものは信ずべからず”という信念である。それと反対に見えざるものと雖も神霊は実在しているというのが唯心思想である。

今日人は口を開けば道義の廃頽を叫び統計は犯罪者の増加を告げている。国務大臣も大会社の社長も小菅行となるにみて、社会悪は上下の隅々までも瀰漫している事は明かな現実である。然らばこの原因は何にあるかというと、もちろん唯物思想そのものからである。巧妙に人の眼を誤魔化しさえすれば悪事をしても現われないと思うが実は何時かは必ず暴露するのである。全く神の眼は誤魔化し得ない事を悟るべきであるに拘はらずそうならない。彼等は子供の時から叩き込まれた唯物思想に災いされているからである。

以上の如く犯罪生産者としての唯物思想を打破しない限り、新日本建設も人間の幸福社会悪の滅消も期待し得られない事である。そうして君が如何に徹底した唯物主義者であるかは、今回の記事によって余りにも明かである。君は徹頭徹尾、新宗教はインチキであり欺瞞であり、人間の作為以外の何物でもないという論評である。

君の論旨によれば、既成宗教にはいささかも触れず、ただ新宗教のみを非難の的としているが、既成宗教といえども最初生れた当時はその殆んどは迷信邪教であり、インチキ宗教であった事はその時代の為政者も民衆も実に残忍な迫害を加えた事によってみても知らるるのである。

特にその最も著るしいものは彼のキリストである。キリスト在世中、邪教の本尊と見做され、民衆からは茨の冠を被せられ刑場に引かれ、万民の罪の贖主として刑場の露と消えられた傷ましき姿は今もキリスト教徒が礼拝の的であって、その尊き御姿を君は何とみるであろうか、此事によってみても、新生宗教の批判は最も慎重を要し、慧眼(ケイガン)なる眼を以て批判の筆を執らなければならないのである。

此意味に於て新宗教の善悪正邪を決める事程冒険はないと共に其批判者の軽挙も戒めない訳にはゆかないのである。結論として一言いいたい事は全日本のジャーナリストが神霊の実在に目覚めたとすれば、その指導下にある民衆の犯罪は、何分の一に減ずるであらうかは、火を睹るよりも瞭かである。

(光新聞四号 昭和二十四年四月八日)