無信仰と有信仰

此論文を書くに当って断はっておきたい事は、無信仰と有信仰といふ此有信仰とは無論本教を指すのであって、他の宗教や既成宗教をいふのではない。そうして昔の事はイザ知らず、現在の此娑婆世界にあって生活してゐる人間を熟々客観してみるに、キリストの曰った「哀れなる仔羊」といふ言葉がよく当嵌っていると思ふ。

先づ考えてもみるがいい、真に何等の不安なく安心して日々を送ってゐるものは恐らく何人あるであらうか、その不安の中第一に考えられるのは言ふ迄もなく人間の病気であらう。如何なる人間と雖も何時何どき病気に犯されるか判らない、一時間後に風邪を引くかも判らない、風邪を引けば肺炎になるかも判らない、或は結核の初期であるかも判らない、今晩あたり盲腸炎が発病し七転八倒の激痛で苦しむかも判らない、明日あたり腸チフスになるか又は原因不明の病気に罹るかも判らない、子供のある人は生命とりといふ恐ろしい疫痢、ヂフテリヤ、脳膜炎等の重症に罹って二、三日で彼世へゆくかも知れない、又年寄りは年よりで、今にも脳充血から中風となり、半身不随のまま何年も床から離れられないような悲惨な運命に陥るかも分らない、若しか家族の中誰かが伝染病に罹って、入院隔離されるかも分らない。

そればかりではない、今日のように医療代が高くては、治療費や入院料がどの位かかるか分らない、それも短期間で治ればいいが、もしか長期にでも亙ったら入院料の為に長年辛苦して貯めた貯金が零となり、仮令病は治っても会社は馘になり、路頭に迷ふようになるかも知れない。然しそれでも生命さえ取止めれば又稼ぐ術もあるが運悪く不具者になるか死んででも了ったら一体どういふ事にならう、仮に主人であった場合遺族はどうして暮しを立てるだらう、又自分としても計画や事業半ばにして終りとなるし、未だ男盛りの年齢であるのに此世を去るとは実に残念だ、妻子と今愛着の絆を断たれるのはどうしても我慢が出来ないといふような事態が来ないと誰か言ひ得よう。之等種々の事を考える時、病気に対する恐怖感は断えず鉛のように重くブラ下ってゐるのは、何人と雖も例外はあるまい。

以上述べたような恐ろしい人生である以上此不安から解放されないとしたら、釈尊の唱破した如く「此娑婆は火宅であり、人間は生病老死の四苦から免れる事は出来ないといふ諦めで我慢するより道はない、それが悟りである」と言ふのである。

以上述べた如くであるから此病気の不安から絶対解放される宗教が現はれたとしたらこんな大きな福音はあるまい。然し初めて此事を聞いた人は「そんな馬鹿な事が此世の中にあって堪るものか、君の頭はどうかしてゐる」といひ、先づ狂人の一歩手前位にしか思ふまい。処がどうだ右の如き宗教が確かに表はれたのである。読者諸君は先づ一応も二応も疑る処か否定するかも知れない、がもしそれが真実であったと知ったらどうなさる、大変どころの騒ぎではない、世界的一大センセーションを起さずにはをられまい。其中で運の好い人は、まあ兎も角一度研究してみようといふ事にならうし、反対にそんな話は迷信以外の何物でもないと鼻の先で笑ふ人もあらうが、斯ういう人は先づ華厳の滝か三原山へ飛込む人のお仲間で、洵に不幸な人といふべきである。

斯ういふ事をいふと、余りに自惚れ過ぎるというかも知れないが、茲で先づ本教の信仰と病気に就て簡単に述べてみよう。本教によって信仰の実態を把握した限りの人々は、病気の心配は皆無となる事である。否病患び根本が明かになった以上、恐れる処か反って、それを喜ぶ位である。何となれば病気なるものは健康増進の為の自然生理作用であって神の一大恩恵であるからである。勿論凡ゆる病患が発生するや、神霊放射能によっていとも簡単に治癒されるからでもある。

以上は病気のみに就て述べたのであるが、未だ病気以外にも不幸は因は多々ある。例えていえば現代生活に於ては交通機関とは切っても切れない関係にあるし、人によっては生活の大部分を占めるものさえある。之が為その不安も災害もなかなか軽視出来ないものがある事は皆よく知ってゐる。其他工場に於る機械の受難、火災の災害、盗賊の被害等々は固より、稀ではあるが地震洪水等の災害も由々しきものがある。斯様に病患を初め諸々の災害が何時如何なる時に襲いかかるかも知れない現代生活を考える時、実に一時と雖も安心出来得ないのである。

之に対し官民共に凡ゆる防護施設を採ってゐる。健康保険、災害保険、失業保険等々はじめ貯金制度、諸種の保護事業等の施設もあるにはあるが、之等有形的の手段は或限度以上の安心は出来得ないのである。どうしても無形の保険即ち神様の保険でなくては絶対安心を得られるものではない。然し現代人は無形の力とか、神様の保険だとかいってもなかなか受入れようとはしないのである。といって有形的方法だけでは真の安心は得られないといふヂレンマに陥って、相変らず不安な日を送ってゐるのが実状であるから、哀れなる小羊に過ぎないのである。

故に吾々信仰者の側から見ると、無信仰者の何等拠り所のない浮草のような生活裡に戦々兢々たる有様は実際見てはゐられないのである。恰度大海に小舟を操ってゐるものに、大汽船に乗れよといっても彼等は自己の船のみを見詰め、大きな船体あるを知らないようなもので、之等を見かねる吾等は折角信仰を奨めても否定の闇の中から抜け出る事が出来ない有様である。

斯様な素晴しい救の力は、人類史上未だ曽つてない事であるから、容易に信じ難いのは無理もない。然し此大いなる福音が現はれたといふ事そのものを考えても、病貧争絶無の世界である地上天国出現の間近に迫った事は一点の疑ふ余地のない事を知るべきである。

(光新聞二号 昭和二十四年三月二十日)