治るんだ

本教に対し、本教を傷つけんとして凡ゆる手段を講じ、取締当局に対って投書戦術を極力利用してゐる者がある。又先日の高山市に於る街頭録音の際も、彼等仲間は相当の頭数を集めて非難攻撃の矢を飛ばしてゐた。サクラも大分あったらしい。何故なれば全然捏造的の事を呶鳴ってゐたものがあったからで彼等は投書の外に言論機関をも極力利用したり流言蜚語を放ったりしてヤッ気となってゐる。之が為当局も相当神経を尖らしてゐるようである。

処が右の如き中傷手段が本教発展の趨勢には影響がないばかりか反って発展の速度を速めるような傾向がある。尤も本教はただ神のまにまに一人でも多くの同胞を救ひ幸福に導くべく神の使命を遂行してゐるのであり、役員信徒は誠心誠意法を重んじ言行を慎しみ、日夜奮励努力しつつあるのであるから、何人と雖も本教を深く検討するに於ては、今迄のあまりの誤解に悔悟せざるを得ない事になるので、そういふ人達の陳謝の言葉もよく聞くのである。

そうして本教に打撃を与えんとする輩は、釈迦に対する提婆とみるの外はなく、昨今彼等が最後の奥の手として用ひつつある方法は医師法違反又は医療妨害に引っかけようとして種々の画策を講じてゐる事は明かであるとすれば、本教の中傷者は医業又は薬剤業に関係ある者、民間療術者等である事は推察するに難くないのである。

本教を病気専門の治療業の如くに故意に見せかけようとする者もあるが、それ等は度し難い輩で唾棄すべきである。本教が常に唱える処の病貧争絶無の世界を打樹てんとする以上此三大災厄の中心としては何といっても健康を全うする事である。健康なくして何の救ひがあらう。世間往々病苦に呻吟しながら救はれたとする信仰者もあるが、之は大なる謬りで、成程精神方面だけは救はれてゐるが、肉体的には救はれてゐないのである、救はれたのは半分だけである。

之は如何いふ訳かといふと今日迄の既存宗教の力は精神的のみで肉体までも救ひ得なかったのでそれは遺憾ながら力が不足してゐたのである。それが長い間に宗教といえば精神的のみ救ふべきものとされて了った所以で宗教学者輩は肉体を救ふといふ事は邪教の分野であるかのような巧妙な理論を構成して了ったのである。此様な逆説的観方は、病気が治ったり貧乏から免れたりするような宗教は、現当利益が目的の低級宗教であると言ひふらしたので、実に誤りも甚しかったのである。

以上のように既存宗教では不可能とされてゐた現当利益が本教の信仰者は豊富に受け得らるるのである。即ち凡ゆる療法によって効なく、医師から見放された患者が忽ちにして好転し、回復するといふ驚異的事実は誰よりも医家にとっては一大問題である。医家の一部に曩に述べた如き盲動を起す者のあるのも一面無理はないとも思ふのである。随而本教が世の凡有る非難攻撃を浴び乍ら、些かも発展の度が緩まないといふ事は当然な訳である。

そうして本教の布教者は宗教的見地から病者に対して、治そうとする心はあまり働かない。病者の依頼に応じ浄霊と称して霊を浄めるだけである。霊が浄まれば病気は自然に治るからである。故に治すのではない治るのである。此点が最も肝腎な処で、之に対し何れの点が法規に触れ社会に害毒を与えるのであるか、実に不可解の一語に尽きるのである。

本教の浄霊によって救はれ、感謝感激に堪えない多くの人々から送って来る山成す報告礼状は、月刊雑誌「地上天国」及び週刊紙「光」紙上だけでは到底載せ切れない程で、如何に多数者の生命を救ひ、社会の福祉を増進しつつあるかは甚だ明かで吾等は大いに調査されん事を望むのである。又多数の被救霊者の報告に対しては些かも誇張する事なく、有りの儘の事実を本人自筆で書くを原則とし、万一書けない者は口述筆記して出す事にしてゐる。故に宿所姓名も出来るだけ悉(クワ)しくし、もし疑ひを抱く者があれば本人直接に訪問尋問されん事である。

吾々は新日本再建といふ大目標の下に邁進しつつあるが、それを知ってか知らでか、極力妨害する軽卒極まる人間があるといふ事は実に慨歎に堪えないのである。人間の最大悩みである病患から救ふその力が、既存の凡ゆる療法より優ってゐるからといふ理由で押潰そうと躍気となるといふ事は、何と評していいか、言葉の発見に苦しむのである。本来なれば吾々の行為に対しては、官民共に大いに推奨すべきが本当ではあるまいか。

何となれば本教の浄霊が盛んに普及されるに従って、医療で解決出来ない処の結核も伝染病も、凡ゆる病患も漸を追ふて減少する事は火を睹るよりも瞭かで、健康日本の出現は敢て難事ではないからである。此意味に於て現在の如く本教の救ひを妨害するといふ事は健康日本の出現を遅延させる以外、何物でもないので全く大なる社会悪である。是に於て吾等は、彼等が斯事に目覚める日の一日も速かならん事を祈ってやまないものである。

(光新聞三号 昭和二十四年三月三十日)