これから記こうとする事柄は、何人も見た事も聞いた事もないものであるから、そのつもりで読んで貰いたい。それは私が私を批判するのであって、言わば私の外に別な私があってそうするので、全然飾らない赤裸々な私の姿を浮べるのであるが、恐らく斯んな変った試みは、今迄にもなかったであろう。では何故私はそんな事をかくのかというと、これには意味がある。それは古往今来私程不思議な人間が現われた事はないと共に、私自身としても他人には想像出来ない程、私自身が見る私は不思議でならないからである。それに就ては先ず私の仕事からかいてみるが、知らるる如く現在私が最も主力を注いでいるのは病気治しである。
現在の社会で治病の方法としては、何といっても医学である。西洋に於ては紀元前彼の有名な医聖ヒポクラテスが始祖であり東洋では前漢時代盤古氏(盤古神王ともいう)が漢方医学を創成されたとなっておりどちらも治病の手段としては薬を主としている。処が漢方医学の方は殆んど見るべき進歩はないが、西洋医学の方は科学文化の影響を受けて驚くべき進歩を遂げたのであって、薬の種類も益々増え、機械、光線、空気等の物理療法の発達は固より、その基礎的手段としては解剖、分析、顕微鏡、動物実験等々、微に入り細に渉って遺憾なく行われている。というようにどちらも已に二千有余年の歴史の上に築かれたものであり、西洋医学の方は十九世紀以後科学の発展に伴い一大飛躍によって、漢方医学は太刀討ちが出来ず、現在は微々たる存在となってしまったのは衆知の通りである。
その結果世界の医学は西洋医学独占となったのみか、この医学を進歩させさえすれば、病気は解決されるものとの信念によって、各国共奨励しているのが現在である。又それを修得する方法としては、小学から大学迄の課程を経、卒業後は実地経験を積み、漸く一人前になるので、それには尠くとも二十余年の歳月と、何十万という費額もかかり、実に容易ではないのである。それでも完全に病気の治る技術を得らるるとしたら何をか言わんやであるが、事実は病気の治らない事夥しいのは、医師も知る通りである。成程医療によれば一時苦痛は緩和し、治るように見えるが、日を経れば必ず再発する。といって手術によれば成程患部の機能を除去するから、再発はしないが、形を変えて他の病気が発生するのも亦事実であるから、この理屈が本当に分ったなら、医学は当然革命されなければならないのである。
処が今日迄それが全然分らないが為、一時的苦痛緩和を治る過程と錯覚し、その方法を進歩発達させて来たのであるから、実に驚くべき無智であった。何よりも医学が進歩する半面益々病人の増えるのが何よりの証拠である。故にこの儘進むとしたら結局人類健康に対する危機の来るのは断言出来るのである。以上が医学の実体を露呈したのだが、この様な恐るべき寒心事に対し世界中一人の発見者がないのであるから摩訶不思議で、これこそ二十世紀の一大謎といってもよかろう。処がこの現状に対し突如として私の説が出たのであるから、正に原子爆弾である。即ちこれによって長い間の暗の幕は切って落され、光明赫々たる病無き世界は、実現の第一歩を踏み出したのである。
そこで愈々医学は滅亡という大異変が目前に迫り来たのである。とはいうものの、これ程人類の心を根強く把握して来た医学の迷盲を晴らす事は容易な業ではない。換言すれば邪を正に立直す事であり、しかも主神の経綸である以上、困難は些かもないのである。そうして私という者を選ばれたのは、天地創造の時已に役得された事であって、この為大救世事業に必要な智慧と力を与えられたのである。従って私は些かも医学を学ばずして、徹底的に知り得たのであるから、この事だけにみても私という人間は、未だ嘗て地球上に現われた事のない不思議な人間である。
という訳で私は神智の眼を通して見る時現代医学が如何に根本的に誤っているかは表現の言葉すらない。慄然とするのである。この事はこれまでの私の著書にも詳しくかいてあるから略すが、茲で肝腎な事は病気を治す方法である。それは老若男女を問わず、職業の如何に関係なく、私の説を信じて治病の術を学ぼうとする場合、数日間の教修を受けるだけでいい。その際御守と称する半紙倍位の紙片に、光の文字を書いたものを与えられるから、それを懐へ入れれば直に治病の力が発揮されると共に、それから修練次第で稍々大きい光明の御守と取替えられ、なお進んで大光明となるが、これだけで驚く程の治病力の持主となるのは勿論、この方法を浄霊というのである。 例えば大病院や博士から見放された者でも、忽ちにして快癒に向い全治する事実に対し、聞いたり読んだだけでは、到底信ずる事は出来まいが、何よりも全治者手記の報告と礼状を見れば分る如く、現在一カ月二三百通に上り、漸次増加しつつあり、本教発行の印刷物に載せ切れない程である。ではこの御守の文字なるものが何故治病力を発揮するかというと、これも中々神秘であるから、そのつもりで読んで貰いたい。即ち私の腹の中には光の玉がある。この玉こそ到底説明は出来ない幽玄微妙なるもので謂わば主神が自由自在に行使する神器であって、昔から曰われている如意宝珠、麻(マニ)の玉がこれである。勿論この玉の威力こそ人類肇って以来初めて私という人間に与えその使用を許されたもので、この玉の光が霊線を通じて御守に伝達し、無限に光を供給するのであるから、御守の数がどれ程増えても何等変りはないのである。
以上によっても分る如く、私が行う業は宗教ではない。宗教以上のものであって、名称を附ける事は出来ないのである。そうして有りのままをいえば、宗教というものは或期間中の役目であって、仮の救いであり、永遠性はないのである。彼の釈尊の曰われた仏滅といい、仮の娑婆も、キリストの世の終りが来るという言葉もこの事であった。というのは今日までの宗教では本当に病気は治らないのは事実が示している。現在宗教の殆んどが医学に頭を下げ、病院を造っているにみても明かである。これでみても宗教の力が科学以下である事を証明している訳で、気の毒乍ら最早既成宗教の生命は終ったのであるから、この事を一日も早く自覚すべきである。従ってこの意味が肚の底から分ったなら、彌勒下生も、キリストの再臨も、救世主(メシヤ)の降臨も容易に分る筈である。若し分らないとしたら、それは事が余りに大き過ぎる為と、二千年以上もそのような事がなかったので、人間は有り得べからざる事と決めてしまっていたからである。という訳で開祖の教えは信じつつも、他面予言の方は信じられなかったという自家撞着に陥っていたのである。
(地上天国四十七号 昭和二十八年四月二十五日)