結核ナンセンス

斯題と此論文を見た専門家も一般人も、大いに憤慨する人と軽蔑する人と感心する人とがあるであらう。然し私はたゞ真理そのものを伝へるので、可否は見る人の心々に任せるだけである。然し乍ら真理である以上、何れ何年か何十年後には一人残らず承服し、礼讃するであらう事も一点の疑ふ余地はあるまい。

扨て愈よ本論にとり掛るが、近来、結核の早期発見を奨励してをり、その唯一の手段として用いるものにツベルクリンの注射がある。そうして反応のないものを陰性といい、紅く腫れるのを陽性といい、陽性に対しては、先づ半ケ年間は結核発病の危険がありとなし、その間一ケ月に一度の試験注射を行うを可としてゐる。半ケ年を経て異常のないものは一先づ注射を解くが、それでも当分三ケ月に一回の注射を勧めるのである。随而、最初の半ケ年の要注意期間中は成可過激な運動を避けるよう注意を与える。というのはそれを守らないと、発病の危険があるからというのである。

以上の如き医学の解釈は果して妥当であるや否やを検討してみよう。それに先立ち私の研究とその成果を発表する事にするが、それによって右の可否は一層明かとなるであらう。

抑々私の唱える神霊医学は、病気とは自然に発生する処の浄化作用の過程としてゐるが、結核と雖もその理に漏れる筈はない。最初ツベルクリンの注射によって陰性であるといふ事は、体力劣弱にして浄化発生の力がないからで、それに引換え紅く腫れるのは、浄化力旺盛であるからである。即ち紅く腫脹する理由は、体内に注射液という異物が侵入する為その異物を体内深く侵入せしめざるよう、いはば防衛手段が発生するのである。その防衛手段とは血液が異物侵入局部に集中し、異物との闘争を開始する。その結果異物の毒分を弱めて、侵入の害から免れやうとするのである。

右の理は最初陰性であったものが、再三注射するや陰性が陽性に転化する。之を医学では陽転というが、此訳は注射液が少量の場合、弱体者は浄化発生の必要が余りないが、多量になる場合はそれを防止するだけの浄化力が発生が必要となるのは当然で、自然は人体擁護の手段を遺憾なく具へてゐるのである。

そうして如何なる人間と雖も、一人も漏れなく先天性及び後天性の種々の毒素を保有してゐる。その毒素は平常時は体内凡ゆる局所に固結してゐるが、一度浄化発生するや溶解し始める。勿論その場合、発熱、咳嗽、節々の痛み、食欲不振等の初期結核の症状が表はる。それによって保有毒素は排泄され、健康体となるのであるから、浄化発生こそ大いに喜ぶべき事で、神の大なる恩恵である。処が医学は之を反対に解釈し、病気を以て健康上不可なるものとして恐れ、極力鎮圧手段に出る。即ち折角毒素排除活動が発ったのを元通り固めようとする。それが医学の療法であるから、今日迄の医学が如何に誤ってゐたかを知り得るのである。

之を一層詳しくかいてみよう。
元来、肺臓という機能は、前述の如く体内各局部の固結毒素が、発熱によって溶解液体化したのを、一旦肺臓が吸収する。その毒素は、間もなく喀痰となって、次々体外へ排泄さるるのである。其際の咳嗽は、喀痰を吸引するポンプ作用であるから、咳嗽の後は、必ず喀痰が出るにみて明かである。斯くして体内の不純物は清掃され、其結果、健康は増進されるのであるから、実に自然は人体の健康保持に対しよく出来てゐるのである。

右の理を知れば、肺患などはあり得る筈はないのである。何となれば、右の如く体内毒素が排泄の際の一時的停留所ともいうべき機能であるからである。其理を知らない医学は、右の如く一時的滞溜の喀痰を肺自体から作られたものと解釈する。故に其際診断の結果ラッセルを認める。処がラッセルは呼吸による喀痰の響きであり、それを病気と誤り、滞溜喀痰を固める手段をとる。その手段とは安静、薬剤使用、湿布、氷冷等で、之を忌憚なくいえば折角清掃の為に、汚物が肺臓という中途の機関まで来たのを喰止めて、排泄されないよう極力固めやうとするのである、それが為、濃度化した喀痰がレントゲン写真に雲翳となって写るや、結核と断定する。之が結核の真相である。

故に、右によって考えれば、結核は全く医学が作るといっても誤りではない。何と怖るべきではあるまいか。何年経っても結核が減らないばかりか、反って殖える傾向にあるのは前述の如く全く誤れる結核の解釈によるので、医学が結核の大量生産をしてゐる。といふ訳になる。それについて、昭和二十四年十二月十一日発行報知新聞に次の如き記事が出てゐる。

「結核の現状を統計で見ると、総死亡千につき結核の死亡率は大正七年の九四、昭和七年の九八から戦争中の十八年は激増して一四一となり、昨年度は一五一となってゐる。」云々。

茲で特に注意すべき事は、結核菌は感染するとして恐れられており、今日巨額の費用を投じ、此防止手段に官民共に大童であるが、之が又大変な誤りである。右の如く最初の或時期までは菌はないのである。然し乍ら無菌喀痰と雖も排泄されずして、長く滞溜する以上固結するから益々排泄困難となるばかりか人間の体は体温といふ微生物発生に好条件があるから、喀痰が古くなれば結核菌が自然発生するのは当然である。之等も医学の誤謬は結核菌を作り培養するという訳になるから、此点パスツールの菌の自然発生否定の説は全然誤謬である。

今一つ見遁すべからざる事は、陽性の際、結核発病を注意するが、此事は逆効果となる。何とならばその一言によって患者は地獄の門に入ったと同様、前途不安に襲はれる。勿論その為の神経作用によって意気消沈は固より、食欲不振、不眠、神経衰弱を惹き起すのである。中には神経性結核となり、生命を奪はるる者さえ往々見受けるのである。

又陽性後の強労働を戒めるのは、浄化力が発生するからで、医療の固める目的とは反対であるからである。そうして特に水泳を戒めるが、之は斯ういふ訳である。水泳の如き一定動作を持続するものは、一局部に毒素が集溜し易い、水泳選手の身体を見ればよく判る。肩部の一個所に往々卵大の固結をみるのである。之が浄化発生によって、発熱を始め、結核初期の症状を呈するからである。

前述の如く、結核菌は自然発生であって、決して感染ではない。私は今日迄幾千の人に対し菌の防衛手段をとらないばかりか、寧ろ感染するやうにしたが、一人の感染者も出ないにみて明かであるから、此事が判っただけでも如何に救はれるであらうかを想ふのである。

此一文を、当局及び専門家に提供すると共に、一日も早くその蒙を啓かれん事を冀うて止まないのである。

(地上天国十二号 昭和二十五年一月二十日)