最後の審判

キリストの曰った最後の審判とは、何時如何なる形によって現はれるものであらうかは之は基督者は固より一般人も知らんとする処であらう。愈よ時期切迫の折柄、その片鱗を茲に発表するのである。然し之は私個人の見解ではない。全く霊感によるのであるから、一の参考とし学説として読まれん事である。

一体、最後の審判なるものは事実あるであらうかを、先づ決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしてゐる文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依してゐる、キリストともいはるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言する筈はない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきといふ事になる。随而、基督者ならぬ吾等と雖も一点の疑なく確信してゐるのである。又私が之だけは信じてゐる。彼の大本教祖のお筆先に曰く「神の申した事は、毛筋の横幅も違はんぞよ。」といふ言葉はそのまゝ審判の予言に当嵌めても間違いないと思ふのである。又善悪に就て斯ういふお筆先がある。「悪は根絶やしに致して善の世に致すぞよ。」「悪の世は済みたぞよ。」「悪の世は九分九厘で厘止りに致し、一厘の仕組で善の世に振替えるぞよ。」「いよいよ世の切替時が来るぞよ。」とあるのは何れも最後の審判の意味でなくて何であらう。吾等が常にいふ之が所謂夜昼転換の事である。又お筆先に、「此世の大峠が来るから身魂を磨いておいて下されよ。」といふ処もある。之は夜昼の転換期を言ったもので、それを越す為には濁った身魂では駄目だといふ意味である。

以上によって聖書の審判を基礎としお筆先の意味を検討する時、斯ういふ結論にならう。即ち大危機が迫ってをり、それを乗越すには心が浄くなければならない。悪人は転落して、永遠に滅びるといふ意味である。とすれば、どうしても正しい信仰によって魂を浄め無事に乗越さなければならないのである。然し乍ら、世の中にはそんな馬鹿な事があって堪るものか。神も仏も人間が造ったもので、現実にそんなものはある筈がないといふ。唯物主義者は仲々信じられまいが、其時になって如何に周章てふためき神に縋ると雖も最早手遅れで、どうにもならない事になるのは、火を睹るよりも明かである。勿論神の大愛は一人でも多くを救はせ給ふのであるから、神意を体する吾等としては、繰返し繰返し筆に口に警告を与えてゐるのである。

此事をお筆先には、「神は助けようと思って、筆先でなんぼ知らしてやれども、いつも鳴く烏の声と油断を致してゐると、今に栃麺棒をふるって、逆さになってお詫びをせんならん時が来るが、その時になっては、神はそんな者にかまうてはおれんから、身から出た錆とあきらめて往生致そうより仕様がないぞよ。」とあるのは、それをよく言ひ表はしてゐると思うのである。之に就て、ノアの洪水の事を概略かいてみよう。

之は数千年か、或は数万年以前の出来事であらうが、無論古代ヨーロッパの或国に、ノアといふ名の兄弟があった。その兄が今日でいふ神憑りになって斯ういふ事を示された。それは近く大洪水があるから、世人に向って、大いに警告せよ。といふので兄弟は頗る熱心に民衆に向って警告を与えたが、誰も信じやうとはしない。数年かかって漸く六人の信ずるものが出来た。神は又方舟を造れと命じた。方舟というのは銀杏の実の形をした舟で、即ち蓋があるのである。処が暫くして果せるかな、長雨が続いた。此雨を百日降ったといふ説と、四十日といふ説があるが、兎に角長期間の豪雨には違いなかった。漸次水量は増し、人家は悉く水中に没し、僅かに山の頂(イタダキ)のみが残った。人々は争ふて舟を行り、又は高山の上に登ったが、意外にも猛獣毒蛇も人間と同様助からんとして、高山に、或は舟に登って来た。空腹の為残らずの人間を喰殺したのであるが、方舟には蓋があるから、登る事が出来ず、八人だけは助かったのである。その八人の子孫が今日の白人の祖といふ事になってゐる。

次に、新約聖書に、ヨハネは水の洗霊をなし、キリストは火の洗霊をするといふ事が出てゐるが、ノアの洪水がヨハネの水の洗霊であるとすれば、キリストの火の洗霊は、いよいよ来らんとする最後の審判でなくてならない事になる。然し乍ら水とは体的であり、火とは霊であるから、吾等が今行ってゐる、霊を以て霊を浄める方法こそ、全く火の洗霊である。すると霊から体に移写するのであるから、火の洗霊が体的に如何に影響するか、之こそ空前の変異でなくてはならない。といっても危機は悪に対してのみ表はれ、善には危機はない事を知らねばならない。

此文を無信仰者に提供するのである。

(地上天国十二号 昭和二十五年一月二十日)