唯物主義と唯心主義の戦

ジャーナリストは殆んど本教を迷信邪教というが、之はどういう訳であらうか。端的にいえば彼等と吾々とは観点が異う。唯物主観によって唯心的を批判するからである。という事は唯物主義とは文字通り判然と眼に見える存在であるから、何人も把握し得るが、唯心主義に至っては不可視である以上、どうしても否定する事になる。故に唯単に比較さるる時、唯心主義の方は実に歩が悪いのは致し方ないのである。

然し乍ら唯物観は眼に見え、五感に触るるだけのもので局限されてゐる以上小なる存在ともいえる。それに引換え唯心観は無限大である、いはば地球の大きさに対する際限のない宇宙の大きさともいえる。今此処に眼で見得る程度としては精々富士山位で、数十哩に過ぎないが、眼に見えぬ想念は地球の涯はおろか無限大に拡がり得る事も一瞬にして可能である。恰度大海が唯心観ならば、それに浮いてゐる船が唯物観であるともいえよう。

以上の理によって、唯物主義は仏陀と同様唯心主義者の掌に何千里か駈けたが、とうとう負けてしまった孫悟空にも似てゐる。又他の例を借りていえば、彼の釈尊が唱えた一切空の説も、唯心観から唯物観を対象としたものであり、生者必滅会者定離もそうであり禅のいう「形あるのも必ず滅する」といふ悟りもこれである。勿論唯心観は永遠無窮の生命体である以上、有限である処の唯物観で、唯心観を批判するのは如何に誤ってゐるかが判るであらう。恰度小さな壷へ象を入れようとするものであり、葭(ヨシ)のずいから天井を覗くようなものである。

唯物主義者よ!此説を読んで以て如何とするや!

(地上天国十一号 昭和二十四年十二月二十日)