学理の魔術

現代人は学理の魔術に罹ってゐるといってもいい。それは学理とさえいえば、何でもかんでも無条件に信じて了ふ。全く絶対的ともいえる。処が学理が絶対でない事は、学理は常に変遷してゐる。例えば肺病は遺伝として長く信じてゐたのが、近来は遺伝ではないといふ説になった。癩病もそうである。今日、日本脳炎の原因が、蚊の媒介としてゐるが、之も遠からず誤りである事を発見する事は、吾等の保證する処である。又結核は日光浴を可とし、一時は非常に流行したが、今は反ってわるいとされて来た。彼の盲腸炎なども冷すと温めるとの可否は、今以て決定的とはなっていないやうだ。又薬剤もそうだ。結核の特効薬としてセファランチンから、ペニシリン、最近はストレプトマイシンといふやうに流行とスタれと交互に現はれつつある。

右の数例にみても、医学の学理は、服装の流行のやうなものである。年中、流行ったり廃ったりしてゐる。といふ訳で、絶対性は先づないのである。尤も之が進歩の過程といえばそれ迄であるが、仮に進歩の過程としても、服装などと違い、事人間生命に関する以上、其犠牲になる人間こそ全く憐むべきモルモットでしかない。

以上のような訳で、現代人は結果よりも、学理を主にする処に問題がある。面白い事には斯ういふ事がある。本教浄霊は治る事は判ってゐるが、学理で説明がつかなければ受ける気にはならないといふ人がよくあるが、之等の人は全く学理の魔術にかかってゐるといふより外に説明がつかない。といって、浄霊を現在程度の学理で説明する事は至難である。それは、浄霊の真の学理は現代の学理よりも一世紀以上も進歩したものであるから、現代人には理解が不可能である。丁度小学生に大学の講義をするようなものであるからで現代人が此点に目覚め、何よりも生きた事実と其結果を第一とし、学理を第二にするようになれば、如何に救はるる人が多くなるかといふ事である。

右に就て、最近発行の橋本徹馬氏著、「共産主義は何故悪いか」といふ中に、左の記事があったが参考になると思ふ。

現代医学とマルクス
私は又曾て、「現代医学とマルクス主義」と言ふ一文をかいたことがありますが、之は資本論をかいたマルクスの錯覚と、現代医学者の錯覚とがよく似てゐるから、試に比較論をしてみたのであります。例えば現代医学者は症状に現はれた病気の研究を実によくしてゐます。肺病の黴菌はどんな形をしてゐるとか、或はそれが繁殖すると、肺がどのやうに侵されるとか、レントゲンで写真を撮ればどのやうにうつるとか、糖尿病がどうだとか、胃潰瘍がどうしたとか、実に微細に色々と病気の研究をしてゐます。そうして其各々の病気に対する投薬の法をも熱心且微細に研究をしてゐます。

然し現代医学者が、如何に多く其様な知識を持ってもそれが既に現はれた病気を追ひかけて廻るものである限り、決して人間の無病健康時代は来ないのであります。若し人間を真に無病健康にしようと思ふならば、須らく人間が病気にかゝる以前に着目し、人間を病気にかゝらせない為の原理をつかんで来て、之を万人に教えなければならぬのであります。

マルクスが商品や、資本や、労働や、貨幣や、剰余価値などのことを科学的に研究して、その間に存する社会の不合理を細々と指摘してゐるのは、恰も現代医学者が人体に現はれた症状を最も科学的に、且つ微細に研究してゐるのと同じであって、どちらもつまらぬ知識なのであります。

若しマルクスが真に其様な社会相を憂えるならば、既に形に現はれた其様な社会相-即ち症状と取組むことをやめ、その様な社会相の現はれる所以の根源を絶つ為に正しい宇宙観、世界観、人生観の把握に基く人間の心構えの変更を教えねばならなかったのであります。

蓋し仏者の言うが如く、三界は唯心の所現であって、人々の心の持ち方が変れば、マルクスが眼に見た処の商品や、資本や、労働や貨幣などの性質も変り、従って亦マルクスの眼に見た処の社会相も、明かに変更されるからです。現に此頃の事業経営者等の中には、自己の営利を目的とせず、専ら社会奉仕を目ざして、マルクスなどの想像もしなかった型の労資協力の実を挙げつゝある者が各所に少なからずあります。(拙著「人生を楽観すべし」参照)これは人間が其心の持ち方を変えさえすれば、それに伴ふて社会相も又変ると言ふことを、実證するものであります。

そこに心づかなかったマルクスは、恰も病源を絶つことを知らずして、頻りに病気と取組んでゐる現代医学者と、好一対の錯覚者であったのです。

(地上天国十号昭和二十四年十一月二十日)