巻頭言

抑々本教が出現したという意味を判り易くいへば斯ういふ事である。例えば大きな池があるとする。勿論、濁った水が満々と溢れてゐる。それへ向って明礬を投げ込む。そうすると明礬が溶けるに従って池の濁水は漸次澄んでゆく、それと同様である。

吾等が常に言う処の夜の世界が永く続いた結果、人間社会は曇りに曇り、汚れに穢れ、神様から観れば足の踏み処もないようになって了った。それが実相である。そこへ忽然と表はれたのが光の本教である。

処が、さんざ世を紊し、人間を自由に操ってゐた邪神の驚愕は一方ではない。夢にも思はなかった神の光が表はれたのである。そうなると悪魔の方は手も足も出なくなるばかりか、善に移らないと永遠に滅亡する危険さえある。といって今更悪を捨て善の方に仲間入りする気には到底なれない。それは執着という奴が頑強に邪魔してゐるからである。

本教が盛んになればなる程、何とかして光を防ぎ止めようとする。その表はれが本教へ対する非難攻撃や悪宣伝である。本教に関する凡ゆる問題は悉く右の原因によって発生するのであるから、右の点をよく認識すれば、明白に首肯され得る筈である。

(地上天国十号 昭和二十四年十一月二十日)