神に愛される

信仰の妙諦を一口に言えば「神様から愛される」事である。「神様の御気に入られる」事である。然らば神様はどういふ人を愛されるかといふ事であるが、それは後にしてその前に先づ知っておかなければならない事がある。それは本教団の使命である。此使命たるやキリストの曰った世の終り、又は最後の審判、釈迦の言はれた仏滅の世といふ時節が愈々迫り来った事である。之に対し神様や仏様は大慈悲心を発露させ給ひ、此世の大峠を一人でも多く無事に乗越させようとなさる事で、其方法として神様はどういふ方法をお採りになるかというと、勿論人間を通して行はせられるのであって、その重大な任務の担当者として選ばれたのが私であると思ってゐる。

何しろ未だ聞いた事も、見た事もないようなドエライ使命であるから、一介の凡人たる私として、些か荷が重過ぎるように思はざるを得ないのであるが、ただ委任の当事者が大変な御方で、世にも素晴しい神様と来てゐるのでどうしようもない。まさか断はる訳にもゆかないといふ訳で、最初は随分疑っても見、反抗してもみたがテンデ歯が立たない。神様は私を自由自在に操り、踊らせるのである。或時は有頂天に喜ばされ、或時は奈落の底へ落されるような目に遭はされた事は一度や二度ではない。然しながら其度毎に神様のなされ方が実に幽玄微妙にして、何ともいえない妙味があり、嬉しいような有難いような全く人生の醍醐味とでもいふのであらう。言葉では一寸言表はせない。恐らく此感じは世界中私一人だらうと思はずには居られない。

偖(サ)て、之から本分に取掛るが、最初に述べた通りの神様に御気に入られるといふ事は一体どうすればよいか。之が一番肝腎である。先づ神様の御気に入られるには神様の御嫌ひな事はやらない事で、その反対に神様の御気に入る事を一生懸命やるようにする事である。之は誰でも常識で考えても判るように神様のお嫌ひな事といえば道に外れる事で、即ち嘘を吐く事、他人を苦しめる事、社会に迷惑をかける事などである。処が今日の人は他人はどうなっても自分さえよければよいと思ひ、それを行動に表はすのがあまりにも多い事である。之が一番いけない。これでは神様のお気に入る筈がない。之に就て自分は今神様のお気に入られてゐるか、或は嫌はれてゐるかといふ事を知らなければならない。それならどうして判断するかといふ事であるが、これを知る方法は実に簡単で、何等の手間ひまも要らない。すぐ判る。それを書いてみよう。

自分はどうも思うようにゆかない。物質に困る、仕事が発展しない、人の信用が薄い、人があまり寄って来ない、健康も面白くない、之ほど一生懸命にやってゐるのにどういふ訳だか判らないといふ人がよくあるが、之こそ神様の御気に入らないからである。神様の御気にさえ入れば仕事は面白いように運び、うるさい程人が寄って来る。物質は使ひ切れない程入って来るといふ訳で、世の中がとても面白くなるといふ訳である。

之でほぼ判ったと思ふが、斯ういうような幸福者となる事こそ初めて信仰というものの価値があるのである。故に折角信仰をしながら幸福がもし掴めないとしたら、必ず自分の心に原因が潜んでゐる事を覚るべきである。

(地上天国四号 昭和二十四年五月二十五日)