おかげばなし批判 軽蔑していて治る

疑うべからざる神の力

愛知県N・Y

年毎に増え行く体重のグラフを眺めながら、のび行く青春の血は燃え事変下の事とて想いは常に兵役の事に集中され甲種合格と晴れの入営とを望んでおりましたところ、忘れようとして忘れる事の出来ぬ八月一五日あの終戦の勅語を耳にした時の驚きは食道を進行しつつあった食物は急停止、張りつめた若人の血潮は逆流、前途は暗澹と恐怖に包まれてなすことを知らなかった。ちょうどその頃より胃を悪くしていた私は食事は人一倍進むに反して体重は増加どころか減退しているのに気付くようになりました。何か腹中に障害物の我が者顔にいるように思われ、それに便秘が加わり憂うつな日が続くようになりました。顏色も悪く仕事をしても身体が重く非常に疲れが早くて人並には出来ず欠勤する日が多くなってまいりました。一昨年の春頃より一層悪化の速度を増して人の目からは私の動作は怠け者の如く思われました。家族の者も憂慮の色濃く、医者に行くように執拗に申しましたが、このようなグズグズした病気は医者だとてなかなか治るものではないと、気の向く儘にあちらの仕事を一寸こちらの仕事を一寸やっては休みしているような状態で、人の潑刺とした働き振りを眺めては呪わしく我ながら情けなくなりました。希望もなく死なばそれまでと半ば諦めておりました。反面何か良い方法はないものかと心はあせるのですが、これといって良い処もなく意気消沈闇路を彷う私でした。

或る日尋ねて来た叔母様が私の様子を心配して光明如来様のお力により如何なる病気でも治され、其の上貧乏からも救われとても素晴らしい御利益がある事を色々とお話しをきかせて下さいましたが、光明如来様だ宗教だときいただけで何がそんな……治るものならとっくに医者に行っている、と考える余地もありませんでした。その後家族の者も何か手当しなければと余り心配致しますので仕方なく半信半疑で、というより何が治るものかと思いながらも余り心配させてはと両親の気休めの為に一里位ある教会にて浄霊を受ける事となりました。

H先生は浄霊に先立ち光明如来様に合掌何かおまいりしておられましたが、自分としては掌を合せる気もありませんでした。先生の前に座りますと掌を振っているだけで何かからかわれているような気持で、こんな事なら小学校の子供でも出来ると可笑しくもありました。全身に対して掌を振り終り色々と光明如来様の有難そうなお話も興味なく家に帰りましたが、治るのだといわれて見れば信じる事が出来ませんでしたが、心の片隅に治りたい一念は続けてお願いするようになり一週間位たった頃には先生のお話しされた一つ一つ思い当る節もあり、掌を振る時に出るという霊気らしいものを感じ始め教会に行くのが楽しみになり、これは一心におすがりする事によって救われるのだと自然にお詣りするようになりました。顔色も出て来たといわれ、自分でも仕事が気持よく腹中の障害物も萎縮されたように軽くなり、便通も順調になり一カ月もたった頃には人並の仕事も出来るようになりました。

こんな簡単に掌を振るだけで病気が治るとすれば私もお光を戴きたくなり、先生にお願いして入信お守りをいただきました。去年一月には光明如来様までお祀りして下され有難く尊いこのお光により私は健康を回復し、人の病を治す喜びは又格別、治された嬉しさの余りは恩の万分の一にも当りませんがお手伝いさせていただいております。

右の批判

右の如く、最初の中身体がだるかったり、怠けたりするのは微熱のある為である。勿論微熱の原因は、常に微弱な浄化が起っているからである。世間斯ういう人は非常に多いと共に、医診は結核の初期のように診断するもので、馬鹿にならない症状である。

此報告で面白い事は、我神療法を疑う処か軽蔑までしているにも拘はらず、驚くべき効果を挙げ全治したのであるから、世間よく謂う信ずるから治るという言葉は何等通用しない訳である。勿論全然自力は加はらず、他力即ち神力のみである事は疑う余地はないであろう。

(救世五十六号 昭和二十五年四月一日)