善悪の戦ひ

昔から人類社会は、善悪の戦のない時も所も殆んどあるまい。大は国際間から小は個人の家庭にまで殆んど例外はないのである。勿論宗教界にあっても同様である。本教も病貧争の一つである此争ひは或時期までは絶対避け得られないとして其救いに専念している。見よ、パリサイ人共が、執拗に彼手此手を使って本教の発展を阻害しようと争いを仕掛る事実は、全く善悪の戦であり、神と悪魔の争闘であり、正神と邪神の戦争でもある。

恐らく新宗教の中で、本教位邪神から目の敵にされてゐるものはあるまい。という事は大いに原因がある。之は誰しも知りたいであらうから悉(クワ)しくかいてみよう。本教の主宰者たる神霊は世界の大転機に際し救世の力を揮はれる以上、邪神界にとっては空前の脅威であり、最後の断末魔である。故に本教が追々大を成すに到れば邪神は追詰められ、改心するか没落するか二者何れかの決定的運命に追いつめられる事で、之を知っている彼等は、何としても此脅威から免れなければならない。其結果死力を尽して妨害活動をするのである。

そして邪神の眷族も何万あるか殆んど数え切れない程である。勿論頭目もあれば上中下の部下もあり力もそれに相応している。彼等邪神群は、本教妨害に当って役立ちそうな者が選抜され、人間一人一人に憑依される。人間とは勿論無神論者であり、唯物主義者であり、稀には唯心主義者もあるが、之は何かの動機によって邪念発生する場合邪神の虜となる事もある。邪神が憑依するやその人間を自由自在に駆使する。その手段として頭脳を占領し想念を奪って了う。例えば本教へ対して何となく癪にさわる、虫が好かない、困らしてやりたい、やっつけてやれという観念が執拗に浮ぶ、処が知性的人間にはそれに合うような想念を起させる、即ち迷信邪教であるからブッ潰すのが社会の為であると思い込ませるのである。

茲で、最も面白い事がある。それは本教刊行の印刷物である。何しろ全部善い記事ばかりで非難の点など些かもないから、もし読まれると邪神の計画は頓挫して了う以上極力見せないようにするばかりか、邪神は非常に之を恐れるのである。それは読むと苦しい為もある。之は邪神憑依者が改心してからよく自白する処である。故に邪神憑依者か否かのメンタルテストには之が一番可い。それは一家庭の眼に触れる所へ置いておくと、手にとって読む者は善い人間で、見ない者は邪神憑依者と断定して誤りはないのである。

右の理によって、本教出版物をみる限り、邪霊は萎縮し、妨害心は消えるが、みる事が出来ない間は、相変らず悪魔の僕となって、神に反抗するのである。此事によってみても本教が如何に威力あるかが判るであろう。

茲で、警告を与えたいのは邪神憑依者の運命である。愈よ霊界が昼となり、浄化旺盛となるにつれて清掃作用が絶対的となる以上、邪神は滅亡するより仕方がない。それが所謂最後の審判である。

然し、神の大愛は一人でも多くの人間を救はせ給ふのであるから、邪神を引放し、肉体を復活せられんとして、吾等をして此警告を書かしめ給うのである。

(救五十四号 昭和二十五年三月十八日)