小乗信仰

今日宗教を批判する場合、斯ういう事をよく聞くのである。それは宗教の本来は教主初め幹部其他も、粗衣粗食茅屋に住み、出づるに電車バス又はテクで、出来るだけ質素にすべきであるというのである。成程、往昔の開祖教祖が信仰弘通に当って、草鞋脚絆で単身巷に出で街頭宣伝をやったり、時には野に伏し山に入り、断食をし滝にかかる等凡ゆる辛酸を嘗めたり、又は牢獄へ投ぜられ、遠島の刑罰まで受けたのであるから、今日からみればその苦難の実蹟は、涙なしでは見られないのである。そうして漸く得た処は一区域一地方がようやくであって、大抵は死後数代又は数十代を経てから全国的に拡がるという訳で、今日に比し其不遇に終始した事実は想像以上である。

右のような実情が一般人の頭にコビり着いている為、新宗教を見る場合もそういう眼鏡を通すので誤られ易いのは当然である。勿論斯のような宗教こそ小乗信仰というのである。此小乗信仰の発祥は最も古く釈迦誕生以前の印度に生れたバラモン宗からで、此教を主眼とする処は、難行苦行によって悟りを開くとされている。今でも印度の一部には此バラモン行者が少数ではあるが残存しているそうで、彼等は相当霊力を発揮し、奇蹟も表はすそうである。彼のガンヂーの断食行も彼が若い頃バラモン行者であったからであらう。

これに就て面白い話がある。釈尊が八万四千の経文を説いたその根本は斯うである。釈尊がその頃の印度の状態を客観する時、何しろバラモン宗が蔓っていたので、難行苦行をやらなければ悟りが開けないとなし、それが信仰の本道とされていたのである。今日日本各所に遺っている羅漢の絵画彫像はバラモン行者の難行苦行の姿であるにみて、如何なるものかが想像され得るであろう。是に於て釈尊の大慈悲心は之を見るに忍びず難行苦行によらないで悟りを得る方法を開示されたのが彼の経文である。経文をただ読誦するだけで難行苦行によらずとも、悟道に徹し得るというのであるから、それを初めて知った大衆の歓喜は言うまでもない。実に釈尊ほど有難い聖者はないとして敬慕讃仰し、終に仏法は印度全般を風靡したのである。之によってみても釈尊の救業中、最も大なる功績が之であったといえよう。

小乗宗教は時代錯誤

以上の意味にみても、苦行的小乗信仰は釈尊の大慈大悲の御意志に背く訳で、実は釈尊の救の対象であったバラモン宗に傾く訳であり、如何に誤っているかが判るであろう。故に釈尊も極楽界に於て嘸歎かせられ給うと想うのである。右によってみても小乗信仰の如何に誤っており、時代錯誤であるかを知るべきである。又別の面から観る時、今日の宗教弘通の上に於て、交通や出版術等の発達は、昔十年かかったものが一日で同様の事を為し得る以上どうしても時代に即応し文明の利器を極度に利用すべきが本当である。然るに独り宗教のみが古代人的の行り方では、真目的が達し得られないのは判り切った話である。何よりの證拠は、今日既成宗教が時代から離れんとしつつある事実にみても余りに明かである。

従而、吾々が現に行いつつある宗教活動を見る時、小乗的眼鏡の持主は、ただ驚歎するのみで、真相の把握など想ひもよらないのである。それだけなら未だいいが、或一部の人は吾等を目して金殿玉楼に住むとか、豪奢な生活をするとかの悪評を放つ事である。然し乍ら、吾々は多数の信徒からの寄進のみで経営しつつある以上、金銭による必要はないと共に、仮りに小乗信仰者の批評を是とすれば、折角寄進した食物も腐らすか、塵溜へ捨てなければならない事にならう。又種々の物品も闇で売る訳にもゆかず、返還する訳にもゆかない。而も信徒の誠で大きな家を献納されるので、それを使用しない訳にもゆかない。それ処かそれによって人類を救うべき大きな仕事が出来るのだから、之等を考える時、小乗者の観方の如何に誤っているかが判るであろう。

歓喜の生活つくる本教

而も本教の理想とする所は、病貧争なき世界を作るにある以上、入信者の悉くは健康で裕かで、和気藹々たる歓喜の生活者たり得るので、今日の如き地獄的社会に呻吟しているものからみれば、想像も付かないばかりか、寧ろ実現を否定し、大衆を釣る為の好餌位にしか思わないであろう。そうして現在造りつつある地上天国の模型を、金殿玉楼的贅沢品位に思うかも知れないが、吾等の目的は今日の地獄的社会を脱れて、時々天国的塵外境に遊ばせ真善美の天国的気分に浴せしめ、歓喜の境地に浸りながら、高い情操を養わせるのであるから、如何に現代人にとって必要事であるかは、今更多言を要しないであろう。全く今日の社会の雰囲気では下劣な人間が造られ、青年を堕落させ、到る処社会悪の温床たらざるはないのであるから、此地上天国こそ現代に於ける唯一のオアシスと言ってもよかろう。吾等の此遠大にして崇高なる計画を真に認識さるるに於ては、非難処か双手を挙げて賛意を表すべきである。

次に今一つの重要事がある。それは日本人が過般の侵略戦争によって如何に世界から誤られ、信用を失墜したかは今更言うまでもないが、その信用を一日も早く挽回する事こそ吾等に課せられたる最も切実な問題であろう。此意味に於ても日本の自然美と日本人の特色である美的才能を示すべき重要施設であろう。今後益々外客の訪日に対し旅情を慰めると共に、日本高度の文化面を認識させる上に如何に役立つかは実現の暁世を挙げて讃美するであろう事を今より期待しているのである。

以上が小乗信仰と大乗信仰の解説である。

(救世五十三号 昭和二十五年三月十一日)