本紙一周年に際して

本紙もおかげを以て、漸く大過なく一周年を過し得た事は、深き神助による事は勿論、読者諸君の並々ならぬ御援助の賜と深く感謝する所である。

何しろ、本教団は之までの宗教と違って、凡ゆる点が型破りであり、又余りに急速な進展ぶりで、洵に驚異に価するものがあろう。所謂喬木風多しで風当りの強い事も容易なものではない。実に毀誉褒貶の渦中をたゆまず呼吸しつつ歩んで来たのである。其間本教を非難するもの、称讃するもの、妨害するもの、援助するもの等々、実に目紛しい程であった。之等は新しいもの、傑出したるものの当然受くべき運命で又やむを得ないともいえよう。

ただ本紙の方針とする所は、善を助け、悪を懲すという確固たる不動の精神の下に邁進しつつある以上、如何なる障害に打つかっても何等恐れる事なく正々堂々と歩むのである。読者も識らるる如く、昨年半頃から始まった読売紙の挑戦に対しても、毅然として正論をかかげて応戦した事は読者はよく承知しているであろう。勿論読売紙と雖も誤解から出発した事はよく判ってはいるが、誤解が氷解しても、尚それに固執し鉾を収めないという事は同紙に対し惜しみても余りあると思うのである。それは意地づくとしか見えない程の態度となり最後には精神病者的記事となったので吾等も筆の汚れと思い応戦の勇気も挫けたのである。又本紙も宗教の機関紙である以上、争いは出来るだけ避けたいからでもある。ただいつもいう通りふりかかった火の粉だけは払わない訳にはゆかないから心ならずも相手になったまでで、此機会に一言弁じた次第である。

以上の如く、無理解者の喧々囂々たる批難にも更に微動だもなく、日に月に発展の歩みを続けつつある事実は全く神助の然らしむる処で、人間業でない事を明かに知るであろう。御承知の如く、今回光を改題して、「救世」となった事は、勿論神業の発展に伴う為で、救世の名こそ救いの業の具体的表現であり、世界的拡大の意味に外ならないのである。

いよいよ切替の時機到来茲に全人類救いの天業こそ、吾等に課せられたる大使命である以上不退転の覚悟を以て筆に口に、勇往邁進以て神命に応え奉らんと期する次第である。

(救世五十三号 昭和二十五年三月十一日)