日本の議員

最近日本の議員団が米国の議会を視察した。その談によれば、同国の議会では野次や喧噪など殆んどなく、真面目にして上品な空気は実に羨しいとの事である。処が右に引換え日本の議会のあの為体(テイタラク)は如何であろう。野次、怒号、漫罵はては腕力が飛び、喧々囂々議長の静止も聞かばこそ、全く市井の無頼漢の集合と何等変りはないと言ってもいい。吾々はそれを見たり聞いたりする毎に、余りの情なさに慨歎せざるを得ないのである。然らば日本に於てはその様なレベルの低い議員ばかりが出来るのは如何なる訳かを深く検討してみる必要があろう。

それに就て、私は今日まで人から議員に出ないかと奨められた事も度々あったが、どうしても其気にはなれない。尤も私の使命から言っても不可能ではあるがそういう差障りがないとしても到底その気にはなれない。といふのは日本の議員になるまでの複雑な事情を考えてみるとウンザリするからである。それをありのまゝここにかいてみよう。

本来議員なるものは国民の代表者とされ国民の総意を政治に反映する担当者である。従って選ばれる処の人は人民の方から推薦されやむを得ず候補に立つのが本当である以上、己れの職業を放擲し、一切を顧みず天下公共の為、或程度一身を犠牲にする覚悟を以て、議政壇上の人となるので、実に崇高博愛的精神の発露であるのは勿論である。だから人民から尊敬と感謝を受けるのは当然で、国家も特別な栄誉と待遇を与えている。とすれば候補者として選挙戦に上るとすれば、運動費一切は選挙民が負担すべきである。それのみではない、国事の為職業を放擲する以上、議員の生活費一切をも人民が負担し後顧の憂なく政治に没頭させるべきである。斯様にして当選した議員としたら人格高潔絶対の信頼を払ふに足る人物たる事は勿論で米国に劣るやうな心配はない訳である。

処が、日本に於ける現実はどうであらうかを観る時、右とあまりにも反対である。見よ候補者の方から選挙民へ頭を下げ、迎合をし感情に訴える事を運動の第一義としている。実に理屈に合はない事夥しい。勿論運動費一切も候補者が出すのだから不思議である。中には法規を潜り選挙民を御馳走してまで御機嫌をとったりヒドイのは買収までするのだから凡そ世の中にこんな理屈に合はない話はあるまい。然しそうまでしなくては当選しないのだから、馬鹿々々しいとは知りつつもそうするのである。という事は、そこに何かがなくてはならない。何かとは勿論、利益との交換である。とすれば少数者の利益の為に多数者の利益を犠牲にする事になる。それが政界の腐敗であり選挙の堕落の原因であるから厄介な日本の政治である。

而も、社会は右のやうな間違った事に対し余り怪まない。成程新聞はじめ国民は常に非難はしているが甚だ微温的である。従って彼等はそれをいい事にして相変らず醜悪な選挙によって定数の議員を輩出しているのが現在である。以上によって考える時、斯ういう結論となろう。もし仮りに真に立派な人物とすれば右のような理屈に合はない馬鹿々々しい事をしてまでも、議員になろうと決して思うまい。而も多額の運動費さえ使うに於てをやである。

右の如く、多額の運動費を使い、不純な方法までして、当選しようとするのであるから、それ相応の人物しか出ない事は余りにも明かである。そうして一度当選するや、無上の栄誉と思い、議員の肩書をヒケラかし、国民の選良とか何とかいって肩で風を切って威張っているのであるから変な世の中である。之では全く立派な人間は蔭に潜み、下劣な人間のみが議員になる結果となるから、最初に述べた如き匹夫野郎的行動は寧ろ当然というべきである。以上吾等は甚だ憎まれ口を利くやうだが真に国家を憂ふる余り赤裸々な批判を試みざるを得ないのである。

然らば、如何にすればいいかというに日本人全体の政治的道義観念を高める事で、真に国を憂ひ大衆の福利を念願とする人間を作るべきである。それには何よりも指導階級の目覚めるこそ最も喫緊事であろう。

最後に一言したい事は宗教々育である。米国議員の優秀である事の根本としては全くキリスト教信仰の為である事は否めない事実であるから、日本も之に鑑み真に価値ある宗教信仰を奨励する事である。之より以外、此問題を解決すべき有力な方法のない事を警告するのである。

(救世五十二号 昭和二十五年三月四日)