安心立命

去る二月十二日ラヂオ昼間放送の際、広島に於る「現代の宗教は安心立命を与え得るか」の標題の討論を聴いたが、その中で感じた二、三の点をかいてみよう。

一人の弁者は、宗教の本来は苦しみを楽しむ事で、それが安心立命というのであるが、此論旨からいうと苦を肯定する事になる。尤も之はよく言はれる言葉だが、此言葉の起りは、どんな事をしても此世から苦を滅する事は出来ないと諦めて了った為で、止むなくせめても苦を楽しむより外に仕方がないという悲しむべき結論である。

然しこれも既往の世界ではやむを得ないとしても吾等はそう思はない。何となれば苦とは吾等が常にいう病貧争の三大災厄、この災厄の原因は何かというと悪魔によって作られるものである。然らば何故悪魔にそんな力があるかというと、悪に勝つべき神の力が弱かったからである。といっても結局は神が勝つが、それには時を要した。という事は夜の世界であった為で悪魔の力は暗黒程強化されるからである。

処が愈よ霊界が昼となる以上悪魔の力は日に月に弱ってくるので、神の力は愈よ強化し、茲に神の勝つべき時代となったのである。然し今日は未だ一般宗教人と雖も、そこまでは気付かないが、右の真相が判れば、諦めを安心立命としていた事が如何に誤っていたかが判るであらう。

故に本当からいえば、安心立命とは現実に苦のない、不安のない状態をいうのである。処が現実はいつ何時病気に罹るか判らない、病気が長引けば貧乏になる、働き手が死ねば苦のドン底に陥る、何時不時の災難が降って来るかも分らない、争い事も無くする事が出来ない、勿論争いの大きいのが戦争であるから、今日の如き原爆時代では想像もつかない不安がある。此間の大戦ですら、家を焼かれ、生命を失い、アレ程の地獄の苦しみに遭ったにみて、それ以上の戦争が始まるとしたら、どんな悲惨な結果になるか判らない。

斯う考えてくると、今の世の中で安心立命などは遠い痴人の夢でしかない。事実苦を楽しむなどのそんな生やさしいものではないにみて、安心立命など言ってゐるのは一時的自己陶酔以外の何ものでもあるまい。従而今日迄の多くの宗教の説き方も救ひの力も最早今日の時勢では間に合はないのである。現在の如き既成宗教不振の原因も其処にあるのである。随而大衆は現実の苦悩を免れんとしても既成宗教では不可能である以上、新宗教を求むるの止むなきに至るであらう。

処が、新宗教と雖も真の安心立命を得らるるのは未だ未知数といってよからう。然るに本教浄霊によれば殆んどの病苦から免かれる以上、病の不安は解消し、貧乏も争も解決するのみならず譬え米ソの戦争が始まっても、或程度魂が磨けた者は御守護により災害を免れ得らるるのである。

右の外、放送中には仏教の堕落などの論議もあったが、之は大して問題にする程のものもない。ただ一つ言いたい事は仏教の創成者である釈尊は、仏法の目的は一切衆生を救わんとされ給うた其意図に対し、今日の仏教家はそれに反しはしないかと思うのである。それは或一部の人に迎合するを可とするようである。というのは仏教哲学や仏教理論に力を注ぎ、それが真の仏教家の使命としている。随而、之等は余程の仏教知識がなくては理論が不可能である以上、畢竟理論の遊戯でしかあるまい。そうして特に現世利益を排撃する態度で、之では釈尊の御意志とは懸け離れているのではあるまいか。大衆の念願する所は難解な仏教哲学でもなく、現当利益そのものである。之は仏者もよく判っている筈であるに拘わらず右のような行り方は何が為であろうかである。

察するに、現代の文化人特に青年層には、既成仏教はあまりに慊(アキタ)らない結果、漸次離れて了ふので、善男善女や愚夫愚婦の支持では甚だ心細いといふのが現実となった今日、どうしても将来性ある青年層や知識人に呼びかけなければならないという訳で、新しい理論を組立てマルクスの弁證法的に仏教を扱はふとするのであらうが、如何に知識人でも肚を割ってみれば現当利益が欲しくないものはない。学究的仏教人でも同様であらう。本来宗教は学理より以上のものであるから、学理を宗教の裏づけとしても逆であるから、何等の意味をなさないのである。

今一つは、新興宗教のナンバーワンとされてゐる本教が、現当利益を高く標榜してゐるので、それに敵し難い結果、現当利益を極力非難し低級宗教視する苦肉の策としか思はれないのである。と解しても誤りではないであらう。

処が、本教に於ては階級の如何を問はず、全人類を救ふのが目的であるから、現当利益は固より、宏遠なる理論も大衆に判り易く説くので信者は満足し、真に安心立命を得らるる結果、発展の勢は漸次加増するのは当然で何等不思議はないのである。


(救世五十二号 昭和二十五年三月四日)