おかげばなし批判 湿性肋膜の盗汗

心配すべきものにあらず

茨城県S・C

私の発病は昭和二二年四月下旬であった。二月末感冒に罹り日頃の体の条件からいってこの位と高をくくって居たが、頭が割れそうに痛み、 水鼻はかめどもかめども後を断たず、平常と異った感覚が脳を刺激するに及んで、もしや結核の初期ではないかと校医の門を叩いた。その結果は単なる感冒との事で安心感を懐きつつ家路を急いだ。安静とアスピリンの治療によってやっと床を去る事が出来た。然しその前後より机に向って居るとひどく労働したかのように腰が痛み、殊に就寝時はこの状態がひどくなった。なにこれ位の事と思って居るうちに春休みになり郷里へ帰った。風はさわやかに青草は燃え出る春を毎日気分がすぐれず、その内に肋膜部が痛み、どうしても止らず、医者の診断の結果は湿性肋膜と宣せられ、呆然とし、 華かな青春の歓喜から一瞬暗黒の世界へと落込んだ。

デカダン的になった私は肋膜から水を取り寂しく家へ向った。この頃の私は茶褐色の痰を吐き、呼吸困難で、熱は三八度を前後し、温湿布と絶対安静を重ね、一週間位すると漸く熱も六度台になりましたが、一日の中午後三時頃の体温は何時も七度一、二分の結核熱におびやかされたが、一〇月も半ば過ぎる頃一〇〇米位歩行を許され退院したのでした。然し一二月末、再び感冒になり熱は三八度線を上下し、右胸に水が溜り、再発かと思いながら一生私はこの身を病床に横たえなければならぬかと思い、 人生に悲哀を感じた過去の療養中、特効薬のない事等思い浮べ、安静が唯一の療養と考え、絶対安静に努めた。翌年の四月下旬になると一週に一度位三七度の赤線を越える程度にこぎつけ、早く体力を付けようと毎日卵数個や魚等御飯は茶腕に二杯も食べた。そのため却って胃腸をこわし、日頃の下痢はその度を増し、或時は便秘に悩まされ、胃が垂れ下ったような気がし、胃下垂の状態になり日に日に体は衰弱し、果ては死を覚悟せねばならぬまでに至った。

その時何処より来られたのか神の福音の御使として、T先生が今眼前に迫り来る死の断末魔に喘いでいた私を救って下さろうとお出で下され、御浄霊の効果等についてお話をされました。 早速姉に教修を受けて頂き、 姉から御淨霊を受ける事になった。信仰に対して絶えず懐疑的でありましたが、生死の一線を浮きつ沈みつ溺れる者藁をもつかむ心地で、ただ偉大な何物かにすがりたい気持で、ひたすら光明如来様におすがりしたのは青葉の燃え出る五月上旬でした。

御浄霊を頂きながらも、今迄物質文明が最上至高のものと思って来たので中々御浄霊の理解が出来ず懐疑の日は続きました。一週間位経った或る晩のこと姉が頭を御浄霊して居るとスーッと頭が冴えて、物質的作用も化学的作用もしないにも拘らず、室内で霊の放射に依って今迄の苦痛の箇所が燃えるように熱くなり、浄霊後は今迄の体は他人の物のように心地良くなって行くのでした。「アア」と思わず感歎の声を発してしまいました。姉は毎日学校から帰り疲れた身もいとわず光明如来様に感謝しつつ御浄霊してくれるのです。これに答えてか、私も病床で光明如来様朝夕お祈りを申し上げるようになりました。その後二、三日するとひどく盗汗が出て驚いて先生にお尋ねしたところ「浄化作用である」と申され安心致しました。その後は日増に具合が良く今日に至りました。ただ今では罹病前以上の健康体にして戴き、専ら地上天国建設の御事業に出来ないながらもお手伝いさせて頂いて居ります。

批判のお言葉

医療は固める方法という事は、常に吾等が言う通りで右の患者がよくそれを物語ってゐる。又動物性食物過量の結果、下痢が続き消化薬を多く服用したとみえて胃下垂を起す等医療によって漸次悪化し死を覚悟する程度迄になったのである。又多量の盗汗があって快方に向った事は湿性肋膜の水が汗によって排泄されたのである。医学では此盗汗を嫌ふが、之は大いに間違っている事を右によって知るであらう。

(救世五十号 昭和二十五年二月十八日)