新宗教と世界の年齢

今日世間は漫然と、新しく出来た宗教だから新宗教といっているようだが、勿論これは当り前な話で何等言う処はないが、併し考えてみねばならない事はその内容である。成程形は新しいとしても、内容が伴なわない限り、真の意味に於ける新宗教とはいえない筈である。処がこの点一般は余り気がつかないようだが、これに就いて私は事実によって検討してみよう。先ず今日新宗教といっても、実際は何百何千年前に出来た教理を土台とし、幾多の人智を加え、築き上げたものが大部分であるから、厳正に言って新宗教ではない。そうして現在の新宗教を大別してみると、神道か仏教かのどちらかに属しており、どちらにも偏らないものとしては我メシヤ教を措いて他には殆んどないようである。

というのは信者も知る通り、本教は神、儒、仏何れの教えも含まれてはいるが、それは或程度であって、飽迄独自の建前を以て、然も広くして深く、自由無碍的である。この様な宗教は未だ嘗てなかったであろう。そうして本教の真髄たるや、凡ゆる宗教、哲学、科学のレベルを超越しており、手前味噌かは知らないが、群峯遙かに抜いて聳ゆる富士山の如きものと私は思っている。故に既成文化の観念を以てしては容易に掴み得ないのは勿論であって、換言すれば二十世紀を断然飛躍した処の未来に於ける最も進歩した学問といってもよかろう。そんな訳で命名のしようもないし、無名でも困るから仮にメシヤ教と名附けたのである。

ここで先ず現在に於ける宗教を総括的に批判してみるが、知らるる如く如何なる宗教でも教祖、開祖は固より、その後継者と雖も、凡ゆる難行苦行に堪え、奮闘努力危機を突破し、一切衆生の悩みを救わんとして来たのであって、或程度の功績は挙げ得たが、それ以上は困難なるが為、現在の如き地獄世界をどうする事も出来ないのである。としたら一体その原因は何処にあったかを考えてみるまでもなく、力が足りない事と時期の関係もあったのである。というのは今日まで主神は物質文化の発展を急がれ、精神文化を次にされた訳である。というその根本的理由こそ世界の年齢が若かったからである。それが愈々二十世紀後半に到った今日、人間としたら二十歳の青年となり、一人前に成人したので、ここに神は真の力の発動によって、霊体完備の文明世界を樹立され給うのである。即ち偽は真に、邪は正に、仮は実に、争は和に、醜は美というように、一切の革新、一切の統合である。その指導者として選ばれたのが私であって、私は神の代行者として活動している。その一つとして今現に超人的力を発揮しつつある。その一例としては、僅か三日間の教修によって、キリストと同様の奇蹟を現わし得る力を人々に与えている。その弟子已に数十万に及んでおり、尚益々増えつつあるにみても分るであろう。

以上の如く、主神の矢は已に弦を離れたのであるから、ここに愈々世界革新劇は開幕されんとする直面となったので、やがては血湧き肉躍る驚天動地の場面は展開され、人類は恐怖と戦慄と感激と興味との渦の中に巻き込まれ、悲喜交々の人間の乱舞が始まるであろう。というように太初已に創作された神のテーマ通り展開されんとするのである。何しろそのスケールの雄大にして多角的なる想像を絶するのであって、その舞台監督としての私であるから、私はこれから千変万化、無碍の活動力を発揮し、大奇蹟を現わすのである。その一例として現在一枚七秒間で書いた光の文字の紙片を懐へ入れるや、キリストと同様の奇蹟を現わし、何万何十万の病者を救い得るのである。又数千里隔てたアメリカやヨーロッパにまでも、霊光は一瞬にして到達する。その速度たるや科学的計算は不可能である。というように、結局に於て現代文明は百八十度の転換となり、地上天国の基礎はここに確立するのである。併しこれを読んで直ちに喜ぶのは早い。何となればそれにはキリストの言った最後の審判という大峠があるからで、それを越さねばならないが、神の大愛は一人でも犠牲者を少くせんが為私をしてその救いに当らせ給うのである。

(栄光二百四十四号 昭和二十九年一月二十日)