宗教と学問

これは一寸気が附かない事だが、よく新聞の学芸欄などで、学者が宗教を論じている記事を散見するが、考えてみれば可笑しな話である。いうまでもなく学問は形而下的のものであって、宗教は形而上的のものであるから、つまり主客転倒である。処がこの逆である理を別段怪しむ事もなく、当然な事のようになっているのが今日の社会である。というのは一体何が為かというとつまり現在の宗教が無力である事を示しているというより外に言葉はない。というのは現在宗教のあり方は、伝統と形式と理屈だけで有難そうには見えているが、実際生活に対して殆んど識者を満足させるだけの内容がないのは、知る通りである。

従ってこの点からみて、宗教よりも学問の方が実際的価値があるとしたら、人は宗教よりも学問の方を重く見るのは当然であろう。何しろ今日の如き生存競争の激しい複雑極まる社会としたら、余程力強い実際的価値あるものでなくては、人は振向こうとはしないのは勿論、単なる精神的救いのみでは無意味であるからである。という事実を考えたなら、前記の如き新聞記事も敢えて咎むる訳にはゆかないであろう。忌憚なく言えば学問では救い得ない面を救う力ある宗教なら、学問以上に扱われるのは当然であるが、そういう宗教は今の処先ずないというのが間違いない見方であろう。そこで自画自讃ではないが、正直にいって我救世教こそ、それに該当するといっても過言ではないと思うのである。

(栄光二百四十三号 昭和二十九年一月十三日)