諦めを説かない宗教

今まで宗教という宗教は、残らずといいたい程その根本は諦める事の教えである。これを解剖してみると、諦めの根本は色々な苦しみに遭い乍ら解決する事が絶対不可能であるからで、せめて精神的なりともその苦しみから逃れたいという希望に応えてくれるものが、即ち諦めという一種の逃避手段であろう。つまりそれ程苦しみを解決出来る方法は絶無であるからである。一例を挙げれば病気、災難にしても、人間の理屈でも努力でも解決が出来ないので、昔は宗教に求めたが、それでも駄目なので諦めを説いたのである。処が近代に至って科学が生まれ、素晴しい力を発揮したので人間はこれによってこそ、諦めなくとも解決が出来ると信じてしまったのである。

処が事実は案に相違で、成程物質的には或程度希望を満足させてくれたが、深い根本的のものに至っては、解決出来そうにみえて、その実不可能という事が沢山ある事も漸次分って来たのであって、現在は一種の懐疑時代といってよかろう。

(栄光二百三十五号 昭和二十八年十一月十八日)