医学は迷信か否かに就いての最も分り易い説明をしてみよう。それは何かというと、外国は兎も角我国の現在に於ける治病法と名の附く悉くは、誰も知る如く医療と医療以外の多くの民間療法で祈祷、禁厭(マジナイ)、信仰療法等々あるが、これ等を総計したら恐らく数に於ては医師以上であろう。然も夫々相当の繁昌を見せている点から考えても、今後増えるとも減る事はあるまい。としたらこれは何を物語っているかを考えるべきであろう。
これに就いて有りのまま言ってみれば、医学は世人が思う程進歩していないのである。若し本当に進歩しているとしたら、大衆は何を好んで国家も有識者も口を揃えて礼讃し奨励している医学を捨ててまで、疑惑の雲に包まれている非医学的療法に走るかという事実である。言うまでもなく一般人は病気に罹るや例外なく早速医師にかかる。併し簡単に治る場合もあるが、中には何程金をかけ、医師も熱心に治療しても思うように治らないのみか悪化する一方で、遂には治る見込はないとして、医師も匙を抛げざるを得ない事になる。斯うなると患者も助かりたい一心で、凡ゆる療法を探し求めるのは当然であろう。人間として命程大切なものはないからである。処がこの際周囲の者達は口を揃えて言う事は、これ程進歩した医学があり乍ら、世間から兎や角言われている新宗教などに命を委すのは迷信に違いないといって、常識論を振翳し、極力止めさせようとするのが御定法である。処が肝腎な病人はそんな事は百も承知であるから応じないのが当然で、この様な経緯はお蔭話中にも沢山見らるる通りである。
これを要するに、問題の鍵は医療で完全に病を治しさえすればいいので、それ以外何もない筈である。処が医療では何としても治らないからこそ窮余の結果他の療法を求めざるを得ないのであるから、寧ろ同情すべきである。処が斯んなハッキリしている事を棚へ上げて信仰療法を非難し妨害するのであるから、強いて事実に目を蔽っているとしか思えない。そうでなければ医学迷信の虜となっている為、盲目となりきっているとしか考えようがないのである。又医師とても御自分が匙を抛げた病人を、吾々の手で助かるとしたら、大いに感謝してもいいと思うのである。そのような事実に対し、医療を何程信用せよと太鼓を叩いても無駄であり、どうしても本当に治る方に赴くのは致し方あるまい。つまり医療が余りに拙劣であるからで、医療で完全に治りさえすれば、黙っていても非医者などに赴く患者は一人もあるまい。斯んな簡単な道理が分らず兎や角言うのは、その人達の頭脳を疑いたくなるのである。
以上の如くこれ程進歩した時代の一面の辻褄の合わないような事も中々少くないので、それが社会全般に被害を与えているのであるから、全く盲聾の世の中である。処が右は常識論であるが、これに対して我救世(メシヤ)教の浄霊医術である。信者はよく知っているが、まだ知らない人の為に一言いうが、医療は前記の如く無力処か、それ以上のマイナス的存在である事の認識が出来さえすれば病気の心配からは解放され、真の安心立命を得らるるのである。次に世人の気の附かない今一つの驚くべき事実がある。それは無薬療法即ち信仰や民間療法で治るのは、その療法の効果よりも、病気を増悪させていた医薬を中止したからである。という訳で皮肉な言い方かも知れないが、信仰療法や民間療法が繁昌するのは結果からいって、医学のお蔭といってもいいであろう。
(栄光二百三十五号 昭和二十八年十一月十八日)