ジャーナリストと本教

今度私は救世教奇蹟集を出版するに当っては、先ず最初三大新聞に広告を出すべく依頼した。処が読売のみは早速掲載したが、朝日と毎日は三週間を経た今日、未だ出ない処を見ると広告輻輳(フクソウ)の為ではなく、他に理由がなくてはならないと思ったのである。尤もこれに就いては前以て予想はしていた。というのは毎日はそうでもなかったが、朝日のみは先頃のアメリカを救うと結核信仰療法の二書とも広告掲載を拒否したからである。その際理由を訊ねた処係の話では、賛否両論あって決定がつきかねる為、掲載は不可能との返事であったので、今回も或いはそんな事かも知れないと思っていた処、今度は毎日も同様なので驚いた次第である。

これを要するに、私の著書はどれもこれも取挙げ難い程破天荒のものばかりなので、怖気がつき、触らぬ神に祟りなし的に引受けないのであろうが、気の小さい話である。併し考えてみるとそれも無理はない。何しろ今までに聞いた事も見た事もないような前人未発の驚異的著書で、現在の学者やジャーナリストの頭脳では、到底理解出来ないからである。併しそれであればある程進歩せる説として価値が高い訳である。然も事実の裏附がある以上、空理空論でない事は勿論で、疑う余地は聊かもない筈である。言うまでもなく現在の智識人に理解出来る程度のものとしたら、それは既成学問の枠内であり、ありふれたものに違いないからである。これを例えてみれば彼の西洋に於けるコペルニクスやガリレオの地動説にしても、当時の学者は勿論、支配的勢力を有っていた宗教人等にも理解困難の為、強い反対に遭い投獄され、生命の危険にまで晒されたのであるから、先覚者の世に容れられない悩みはいつの時代でも同様であろう。早い話が日本に於ても幕末当時西洋的のものは、何でも彼んでも切支丹バテレンの名の下に、一刀両断禁止された事や、密かに蘭学を学ぼうとした杉田玄白、高野長英等もそうだが、吉田松陰の如き泰西文化に触れようとした為、アレ程の迫害を蒙ったにみても、思い半ばにすぎるであろう。

これに就いて面白い話がある。昔白人探険家がアフリカ内地旅行の際、偶々蕃人が何か地にあるものを見つけて驚き、悲鳴を上げ逃げたので、早速その場所に近附いてみると、何と一個の時計が落ちていたので、失笑を禁じ得なかったという一挿話を或本で見た事がある。これを憶い出した私は少し誇張かも知れないが、その時計と救世教奇蹟集と相似ているとさえ思った事である。というように私の説く処行う処は、悉く現代文化のレベルを遙かに抜いているので、反って始末が悪いのである。今一つの事は今日世界何億の人民が神として崇めているイエス・キリストが行ったと同様の奇蹟を行い得る私の弟子、已に数十万に及んでおり、尚益々増えつつありという一事など、これだけみても唖然とするであろう。

さらばといってこれを異端邪説視する事も出来ない。確実な立証が伴なうからである。そうかといって今直に偉大なる発見として取挙げる事も勿論出来まい。それには大いに勇気を要するからである。何しろ何百何千年にも及び伝統、宗教、学説等の綜合智識で出来上った頭脳である以上、急に切替えるのは無理であるからで、どうしても時を待つより致し方あるまい。そうかといって安閑としてはおれない理由がある。それは驚くべき神示であって、人類は近き将来断崖から転落する如き危機が迫りつつある事である。これを救うべく神の大愛は世界至る所に救いの綱を準備されており、早晩これを握らざるを得ない時が来るのは已に決定的である。処がこの重大事を知らず、又知らされても信じないジャーナリスト諸君は、何れは臍を噛むのは分っているが、それに盲目であるが為、広告を引受けないのであろうが、それだけならいいが、この結果として大多数の不幸な人々が救われる機会を失うのであるから洵に遺憾である。それというのも本教の実体を知らず、他の新宗教と同列視しているに外ならないのであるから、本教が他の如何なる宗教とも全然異っている認識であって、それには本教を徹底的に調査検討されん事を切に望むのである。現に本教が行っている事業たるや、偉大なる新文明の創造であり、その企画の雄大なる何物も追随を許さないものであり、これによって世界人類が救われるとしたら、この際小乗的見方を捨て寧ろ本教を支援すべきが本当ではなかろうか。併し総ては時の問題である。何れは一般に解り出し、世界の輿論となるとしたら、その時となっては已に遅しで、全部の新聞紙は慌(アワ)てて取挙げざるを得ない事になろう。そうなったら今日の如き大新聞としての権威を保つなどは一つの笑い話となるであろうが、それにはこの際目を大局的視野に向けられん事である。釈迦に説法ではあろうが、新聞の使命は社会の指導的正しい輿論を作る事で、輿論の後を追うようでは無定見の譏(ソシ)りは免れまい。

これに就いて羨しいのは彼のアメリカである。同国の有識者始め社会一般の進取的自由主義思想は、今までのものより進歩的であり、人類の福祉に聊かでも役立つものとしたら、躊躇なく採入れる態度である。発見者が学者であろうとなかろうと、商人でも職工でも宗教家でも、そんな事はどうでもいいという大胆卒直な見解の広さである。同国が二世紀に満たない今日、世界をリードする程の地盤を築き上げたのも故ある哉である。私は日本もこれに鑑み、一日も早く島国根性を一擲(イッテキ)し、非は大いに糾弾すると共に、是は大いに擁護するという大乗的見地に立って、新聞としての大使命を発揮される事である。そうして結局に於てこの救世の大業が完成する暁、日本が人類史上空前の模範国家として、世界から尊敬の的となるのは断言して憚らないのである。敢えてジャーナリスト諸君の猛省を促す所以である。

(栄光二百三十四号 昭和二十八年十一月十一日)