一人が百人

本教信者が、一生懸命浄霊や言霊によって一人の信者を作り、ヤレヤレと思うその時は、只手を引いて門内へ入れただけのことで、中々安心は出来ない。どうしても御座敷へ案内して、家の内部の肝腎なところを見せなければ、本当の信者になったとは言えないのである。これは経験者にはよくわかっているが、これについて言いたいことは、その人が一人の確かりした信者を作るだけの力があるとすれば、百人を作ることは敢て難事ではない。その又百人が百人の信者を作るとしたら、鼠算的に増え、遂には驚くべき数字に上るのは勿論である。

というとそんなに巧くトントン拍子にゆくとは思えないであろうが、それは今までの宗教を標準として考えるからである。ところが我救世(メシヤ)教は全然異う。何となればその力に於て、今日までの宗教とは比べものにならない程高度な宗教であるからである。特に本教独特の浄霊法であるが、この方法による病気治しの成果は、到底信ずることは出来ない素晴しさであるのは、一度本教に触れれば直ちに分るのである。成程今日まで信仰的病気治しの行り方は色々あるにはあるが、それは神仏の間接的御利益と自力との二つであるばかりか、神仏といえども二流以下の資格であるから、ある程度以上の力は発揮出来なかったのである。ところが本教の主宰神は主神である以上、揮われる力は絶対力である。何よりもすべての宗教が病院を作っているに拘らず、本教のみは作っていないにみてわかるであろう。

しかも本教に於ては、何百何千年前に出来た教義や行り方は殆どないばかりか、寧ろその誤りを指摘しているくらいである。というようにすべてが新しく、しかも既成宗教が科学文化に冷淡であるに反し、本教はその点に於ても大いに批判し、その欠陥を暴露し高度の文化的標準を示している。従って何や彼や本教を非難する人がありとすれば、その人は未だ本教に触れていないからである。又本教が他の追随を許さない特異性としては大言壮語と過られる程奇蹟の多いことと、そのスケールの大きな点であろう。しかもそれが着々実現しつつあり、驚異的成果を挙げている。これは宗教に関心を持つ人は無論のこと、第三者の人々も近来漸く注目を払うようになったことである。

以上の如く本教は宗教でありながら、宗教は一部であって、目下のところだけでも医術、農業、芸術を主としての素晴しい成果を挙げている。勿論いずれは他の文化面に亘っても、劃期的事業を行う予定であるが、これを一言にしていえば誤れる地獄的文化をして、真の天国的文化に置き換えるのである。このような空前の力を有つ宗教としたら、一人が百人に増えるのも敢て不思議はないであろう。

(栄光百九十二号 昭和二十八年一月二十一日)