新しい愛国心

此の愛国心という言葉ほど、世界共通のものはあるまい。どんな国でも之を金科玉条としていない国は恐らくないであろう。日本に於ても終戦前迄は、他国に見られない程の旺盛な愛国心が国民全般に漲っていた。其の原因は勿論天皇制の為もあり、天皇を以て国民のシンボルとし、現人神(アラヒトガミ)として崇め奉っていたので、吾吾の記憶にも明かな処であるが、それというのも万世一系の天皇としての尊信が、国民感情をそうさせたのは勿論であると共に、一派の野心家や権力者輩も教育に宣伝に極力煽(アオ)って、自己の都合のいいように仕組んだのは誰も知る処であろう。其の結果外国にも見られない程の特殊的国家が出来上り、自称神国としてひとりよがりになって了い、それ程の金持でもない癖に我儘坊ちゃんのようになっていたのである。

其の上御用学者などという連中も、歴史的論理的に巧みに自尊心を昂(タカ)めたのだから堪らない。忠君愛国思想は否が上にも全国を風靡し、国民は何事も国の為、陛下の為として生命を犠牲にする事など何とも思わないようになって了い、之が最高道徳とされていたのである。それが彼の敗戦によって見事自惚根性は吹っ飛び、反って劣等感さえ生れたのである。而もその際天皇の御言葉にもある通り“私は神ではない、人間である”との宣言もあって国民は驚くと共に、新憲法も生れ、政治の主権は人民にあるという、日本にとっては破天荒ともいうべき、民主々義国家となったのであるから、全く開闢以来の一大異変であった。そこへ天皇の御退位も加わり、識者は別としても、的を失った国民大衆の前途は暗澹となり、其の帰趨に迷わざるを得なくなったのは誰も知る通りで、現在もそれが続いているのである。

それに就いて面白い事があった。終戦直後の事、私に会う人達は誰も彼も“到頭神風は吹きませんでしたね”と言い、残念そうな顔つきなので、私は斯ういってやった。“冗談じゃない、正に神風は吹いたじゃないか、君等は神風を間違えていたんだ。本来善を助け悪を懲らすのが神様の御心なのだから、日本の方が悪である以上負けたのは当然である。だから寧ろ有難い位で、お祝いしてもいいんだが、そうもゆかないから黙っているだけの事で、何れは分る時が来るだろう”之を聞いて彼等は“よく分りました”といい、晴々として帰ったものである。

之によってみても、それ迄の日本人は国家の事になると善悪などは二の次にして、只利益本位にのみ物を考えていたので、八紘一宇などという飛んでもない御題目まで唱えはじめ、自分の国さえよくなれば他の国などどうなってもいいというようになり、之が忠君愛国とされて、馬車馬的に進んだのであるから、全く恐るべき禍根はこの時から已に胚胎していたのである。

以上によって考える時、愛国心といっても其の時代々々に適合すると共に、善悪正邪の観念を根本としたものでなければ、国家百年の大計は立てられないのである。そこで私は今後の時代に即した愛国心とはどういうものかをかいてみるが、最も分り易く言えば、それ迄の日本は小乗的考え方であったのを大乗的に切換える事で、之が根本である。一口に言えば国際愛であり、人類愛である。つまり日本を愛するが故に世界を愛するのである。それというのも今日は一切万事国際的になっており、孤立や超然は最早昔の夢となったからである。従って今後の愛国心を具体的に言えば斯うである。吾々同胞九千万人の生命の安全を第一とするのは勿論、道義的正義の国家として、世界の尊敬を受ける事である。それに就いても今旺んに論議されている再軍備問題であるが、之に対しては余程前から賛否両論相対立し、中々解決がつかないのは困ったものであるが、私からいえば左程難しい問題ではない。何となれば実際問題として考えれば直ぐ判る。それは『日本に対し侵略する国が絶対にないという保証がつけば、再軍備は止めるべしだが、そうでないとしたら国力に応じた再軍備は必要である』只此の一言で分るであろう。

(栄光百八十五号 昭和二十七年十二月三日)