活字の浄霊

此題を見たら一寸見当が附くまいが、左に説く処を読んでみれば成程と合点がゆくであろう。それは私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。ではどういう訳かというと凡ては文章を通じてかく人の想念が其儘映るものであるからで、此点充分知らねばならないのである。之を霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、此意味に於て私がかく文章は神意其儘であるから、其人の霊は浄まるのである。

此様に読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格が如何に大きな影響を及ぼすかは勿論である。従って仮令小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、此点作家もジャーナリストも、大いに考えて貰いたいのである。といっても固苦しい御説教が可いという訳ではない。勿論興味津々たるものでなくては、好んで読まれないから役に立たない訳で、面白くて読まずに居られないと、いうような魅力が肝腎であるのはいう迄もない。

処が近頃の文学などをみても、売らん哉主義のものが殆んどで、単なる興味本位で評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、読み終って何にも残らないという活字の羅列にすぎないのである。斯ういう作者は小説家ではない、小説屋だ。人間でいえば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えて了うのは誰も知る通りである。

そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚く位であるから、其欠陥をテーマの基本にすれば取材はいくらでもある。私は映画が好きでよく観るが、偶々そういう映画に出遭った時、興味津々たると共に何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、其作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。而もそういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから一挙両得である。以上思いついたままかいてみたのである。

(栄光百八十四号 昭和二十七年十一月二十六日)