自由なる信仰

信仰の自由は、新憲法制度以来そうなったので、之に就ては論ずる必要はないが、私の言わんとする処は、信仰それ自体の自由である。というのは世界中大中小幾多の宗教があるが、例外なく自分の宗教は最高であり、他の宗教は必ず劣るとしているのは誰も知る処であろう。という訳で他の宗教へ触れる事を極力戒めている。他教は邪教であるとか、コチラの神様のお尤めが恐いとか、二心あっては救われないとかいうのである。それが宗教によっては随分厳しいのがある。万一転向でもすると、大きな災いが来る、大病に罹る、命が失くなる、中には一家死に絶えるというような、縮み上るような事を曰って喰止めようとする布教師もある。之こそ邪教の常套手段であって、勿論此様な事は常識的に見ても、馬鹿々々しいが、本人自身は案外信じて、中々決心がつき兼る。処が斯ういう信仰は新しい出来星の宗教のみではない。相当古い立派な宗教でも、それに似たような事が往々あるのだから不可解である。之などもよく考えてみると、自由思想は政治や社会面のみではない。宗教にも封建の桎梏は相変らずのようである。

右の如くであるから、私は宗教に就ての自由を言いたいのである。それは信者の意志を制約して、教団の都合を図る事で、之こそ以ての外である。而も其手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、茲に至っては最早赦すべからざる信仰的脅迫である。其一例として私は斯ういう事を聞かされた事がある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので脱けようとすると、其布教師は恐ろしい事をいうので、どうしていいか分らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいと曰ってやった。然し斯ういう宗教も世間仲々多いようである。

では其理由は何処にあるかというと、勿論信者を減らしたくないからの苦肉の策でもあろうが、其他の理由もある。それは昔からある事だが、其宗教が隆んになるとよく贋物が出たがる。本教なども今迄にそういう事が時々あるので、其都度私は曰うのである。宗教も化粧品と同様、売れると贋物が出るもので、贋物が出る位なら世の中から認められた証拠だから、寧ろ結構ではないかと笑うのである。此事は形は異うがキリスト教にもあるようだ。それは偽キリスト、偽救世主が今に出るから注意せよと戒めているが、之は善い事もあれば悪い事もある。何故なれば若し本物の救世主が出ても、偽物と思い誤り、救われない人が出来るからである。

処で一番困るのは、自分の信じている宗教が最高のものと思い込んで、熱烈な信仰を捧げている人の多い事である。併し之は本当にそう思っているのだから、精神では救われているから御本人だけは満足しているが、それは本当ではない。何故なれば物質面も救われ、霊体揃えて天国的生活者にならなければ、真の幸福ではないからである。処が其事を知らない盲信者が多いとみえて、一生懸命信仰をしながら、不幸から解放されない人も随分多いようである。右に就て今一つ注意したい事がある。それは他の宗教に触るるのを恐れる理由は、其宗教より以上の宗教があるかも知れないとの懸念の為であろう。というのは其宗教に弱点があるからで、大いに注意すべきである。

そうして自画自讃で言い辛いが、我メシヤ教に限って其点実に自由である。之は信者はよく知っているが、他のどんな宗教にでも大いに触れるべしと云っている。勿論研究も結構で、それだけ見聞が拡まるからである。其結果もしメシヤ教以上のものがあったとしたら、いつ転向しても差支えない。決して罪とはならないからで、本当の神様なら其人が救われ、幸福になりさへすればそれでいゝのである。

(栄光百七十七号 昭和二十七年十月八日)