現代医学に対する哲学的考察

私は常に現代医学の迷蒙なる点を指摘しているが、茲で科学にも宗教にもよらない哲学的見地から、批判してみようと思うのである。それに就ては先づ人間なるものの実体であるが、人間誰しもオギァーと生れるや、親の乳を呑み、段々育つに従って固形物に進んでゆき、空気、水、太陽の恵によって、一人前に育つとなるや、人間各々の天性による特長、技能を発揮し、社会構成の一員となるのは今更言う迄もないが、それらを意識的に行う人は少なく、一般は無意識的に夫々の役目を荷うのである。

そこで之等をよく考えてみるとどうしても目に見えない何物かに命令されたとしか思えない程に、決定的に従わせられている。之を名付けて人間は運命というが、然し此運命に満足する者は至って少なく、大抵な人は不満が起ってそれに反抗しようとする。処が運命という奴実に皮肉なもので、逆らえば逆らう程、反対に運命の反撃に遭い不幸な目に遭う。寧ろ運命に従順である方が、反って倖せになるのは注意してみればよく分るのである。そこで此運命に就て一層深く掘下げてみると、どうしても誰かが此運命の綱を握っていて、自由自在に操っているとしか思えないので此誰かこそ此世界の支配者、即ち絶対者である事も信じない訳にはゆくまい。

処が右の如き絶対者は別として、誰にも分り易い人間の運命を左右している今一つのものがある。それは何かというと病である。此病こそ大変な曲者で、一つよりない人間の生命を絶えず揺ぶっている暴君的存在である。というように運命の鍵を握っているのは、絶対者即ち神とそうして病であるのは勿論である。尤も昔から病神と言う言葉もある位だから、満更縁がないでもないが、右の次第で兎に角此病さえ征服する事が出来たなら、人間の運命の半分は解決出来た訳である。だが其様な病を征服する力が此世の中にありやというに無論今迄の世界にはなかったが、二十世紀の今日之が出現したのであるから大問題である。それは言わずと知れた我メシヤ教の生誕であって、今いう幸運の鍵は確実に本教は握っているのである。従って本教が世界に拡がるに従い、病人は漸次減少し、其結果人間の寿齢は百歳以上になるのは当然である。処が現在の事実を見ると、今日六七十歳になったといって、之が医学の進歩の為としているが、之こそ飛んでもない短見である。何となれば医学の全くなかった二千有余年前ですら、史実に明かな如く百歳以上の寿命は通例となっていたらしい事である。而も其時代には医薬は全然なかったのであるから、現代人としたら実に不可解千万と思うであろう。

右に就てよく考えてみると、人類は二千有余年以前、医聖ヒポクラテスが創成された医学が、茲迄進歩したといっても右の如くであるとしたら、どこかに大いに誤った点があるに違いないのは、敢て呶々を費す必要はあるまい。其上病の数でさえ年毎に増え、伝染病の脅威も益々加わるという不安極まる現状を見れば昔人とは到底比較にならない程の深刻さである。にも拘わらず医学信頼の迷夢は到底醒める処ではなく、益々盲目的に突進しているのであるから、其無智なる評する言葉はないであろう。そんな訳で人々の考えは病気は容易に治らないもの、医療は如何程進歩しても病気の解決は困難であると決めているのである。にも拘わらず之を進歩させさえすれば解決するものと漫然と信じていると共に専門家と雖もそう信じて熱心に努力研鑚の結果、新薬と新療法を次々出すのであるが、何しろ根本が的外れであるから、効果は何れも一時的で、時が経てば駄目になって了う例は、常に嫌という程見せつけられている。従って専門家の中でも心ある者は、医学の進歩に疑問を抱いているので、我浄霊法を知るや転向すべく考えている人も相当あるようであるが、何しろ肩書の名誉に経済的不安等も伴うので、容易に決心がつき兼ねているらしいのである。

以上の如き盲目悲惨なる現在の世界を救うべく最高の神は我メシヤ教によって、医学の真理を全人類に開示され給わんとされているのである。

(栄光百六十一号 昭和二十七年六月十八日)