舌に代えて

恒例の如く、今回も九州地方へ宣伝班が巡回講演するに就て、私の原稿を欲しいと云って来たので、左の通りかいたのを茲に掲げる事とした。

私はメシヤ教々主岡田茂吉であります。実は皆さんに直接お話したいのでありますが、そういう訳には参らないので、残念乍ら原稿にして読ませますから、その御心算(オツモリ)で聴いて貰いたいのであります。

抑々我メシヤ教は、御存知の通り最も新しい宗教であります。それと共に最も大きなスケールの下に活動しつつある宗教であります。それは何かというと病貧争絶無の世界、即ち此地上に天国を造るというのであります。尤も此説はキリストの天国は近づけりとか、釈尊の彌勒の世の未来成就説などを始めとし、幾多の聖者は同様の予言をされている事は、誰も知る通りでありますが、私は其予言を実現する。即ち理想世界を如実に造るのであります。という訳で何れは誰かが造らなければ、右の二大予言は造る人が出なければ空言となって了うでしょう。とすれば釈迦、キリストは嘘を吐いた事になり、二千有余年間人類は騙されていた事になりましょう。それでは聖者処か大嘘吐きとなるので、其様な虚偽が二千年以上も長い歳月、暴露しない筈がないでしょうから、此事だけにみても、我メシヤ教が出現すべき理由と、其時期の来た事は、何等不思議はないのであります。

今一つ是非知って貰わねばならない事は、現在の文明は進歩したといっても、それは外形だけで、内容に至っては空虚で、魂がないといってもいいでありましょう。判り易くいえば物質的には進歩したが、精神的には何等進歩は見られない事で、それは事実がよく証明しております。何よりも之程文化が進歩したと言い乍ら、人間の幸福は進歩の程度と余りに伴わない事で、人類の苦悩は絶える事なく、全く地獄其儘の世界であります。それはどういう訳かというと、今申したように唯物科学偏重の結果、精神科学を忘れて了ったからで、つまり人間なら半身不随で、不具的文明であったから、幸福な社会など出来る筈はないのであります。

次に此世界は造物主即ち神様が御造りになられた事は、何人と雖も否定する事は出来ますまい。そうして世界を造られると共に、神様の御目的は真善美完き理想世界に迄進歩させるにある事で、それが為最初の経綸として、物質文化を発達させたのであります。処が最早或程度物質面は完成の域に達したので、茲で愈々精神文化の面を一挙に飛躍させ、両々相俟って進む事になったので、茲に初めて天国世界実現の段階となるのであります。之を判り易くする為、一つの譬えを申しましょう。昔からいう計画とか、企画とかいう言葉で、此下の文字は画くという字になります。其様に神様は大計画の下に、長い年月を経て世界を主題とした名画を描かれたのであります。勿論種々の色彩が必要であるが、之も世界の国々をみれば分るでありましょう。例えば米国は黄色、英国は紫、ソ連は赤、日本は白、独逸は柿色、仏蘭西(フランス)は浅黄(アサギ)、伊太利(イタリー)は黒、中国は青、朝鮮は鼠というように、夫々の特異な色を持っている。其色を駆使して神様は思いのままに筆を揮われ、茲に世界画をかき上げたのであります。処が描いただけでは何にもならない。どうしても魂を入れて、生きたものにしなくてはならないが、それには目玉を入れる必要がある。つまり瞳を入れるのであります。だがそれは誰が入れるかというと、斯く申す私であります。

茲で一寸瞳に就て説明を致しますが、之も言霊上ヒトミとは火と水の事で、日月であり、日月は眼に相応します。又火は経に燃え、水は緯に流れるから、つまり経緯であり、此経緯が結ばれてこそ、両眼揃って完全な働きをするのであって、換言すれば経が精神文明で、緯が物質文明であるから、両文明が一致して、初めて天国世界が生れるのであります。つまり経が父で緯が母であるから、其結合によってミロクという立派な子が生れるのであります。以上甚だ抽象的でありますが、之で概念だけは得られたと思うのであります。

以上申したように、今迄の文化は不具であって、何も彼も上面だけで、中味がないから、間違いだらけの世の中になっていたのであります。そこへ愈々我メシヤ教が出現して、それら一切の誤謬の因をハッキリ分らせると共に、本当の行り方を教えるのであります。何よりも個人としては本教を信ずるや、忽ち運命の大転換となり、病に悩む不健康者は病は癒えて、完全健康人となりますから、思い切って働く事が出来るので、貧乏は吹っ飛んで了い、争いもなくなるのは勿論で、家庭は天国化すのでありますから天国的家庭が増えるに従って、天国的社会となり、茲に天国世界が実現するのであります。だが之だけを聴くと余りに旨い話で棚牡丹式なので急には信じられないでしょうが、それも無理はないので、何しろ今迄に此様な素晴しい救いはなかったからであります。処が之は一点の誇張や掛引もない事実ありの儘をお話しするのでありますから、些かなりとも疑いのある人は、実地にブツかってみる事であります。其結果本当であれば信ずるより外はないし、若し偽りであるとしたら、断然私を葬って然るべしでありましょう。だが私はそんな恐ろしい自殺行為は、真ッ平御免であります。という訳で私は神の代行者として、絶対確信を以て救いの業に邁進するのであります。余り長くなるから此辺で筆を擱くのではなく、代弁者の舌を閉じる事に致します。

(栄光百五十八号 昭和二十七年五月二十八日)