悪人は病人なり

此標題を見たら、誰しも首を捻るであろう。何故なれば、悪人でも、健康そうに見える者も沢山あるからで、寧ろ悪人の方がそういう人間が多い位だ。然し之は表面から見るからで、内容即ち霊の方は立派な病人なのである。というのはいつもいう通り、悪人というものは悪霊が憑依して、本守護神を押込め、正守護神を蹴ッ飛ばして、早くいえば其人の霊の大部分を占領して了い、悪霊自身が主人公になり済まし勝手気儘に振舞うからである。

其悪霊とは、言う迄もなく、狐、狸、龍神、其他の動物霊であるから、其行為は動物と大差ない事になる。従って人としたら到底出来得ない程の、無慈悲残虐な事を平気で行る処か、反って面白がる位だから、如何に人間離れがしており、常識では考えられないかが分るのである。

といっても人間誰しも副守護神、即ち動物霊は生れながらに憑いている事は、私が教えている通りであるが、之も人間の生存上止む事を得ないので、それは体欲が必要だから神は許されているのである。処が悪人となると新しく動物霊が憑る場合と、元から居る右の副守護神が動物の本性を表わす場合との両方がある。ではどうして其様になるかというと、つまり其人の霊に曇りが生じ、其曇りが濃厚になるに従ってそれ相応の動物霊が憑く事になり、憑くと前述の如く、人間の本霊の方が負けて了うから、彼の思い通りになって了い、活躍するのであるから、悪人とは即ち霊の曇りが原因であって、其霊の曇り通りに血液も濁るから、何れの日か猛烈な浄化作用が必ず起るのである。其場合曇りの程度の苦痛が生れる。それが不時の災難や、病気其他の不幸の原因となるのである。面白い事にはよく大悪人が些かでも反省の念が湧き、仏心が起ると間もなく悪事が露見し、捕まるという事をよく云われるが、それはヤハリ浄化が発ったからである。又悪旺んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つという諺なども其意味で、つまり人間は心に曇りが溜ると、苦しみによって浄められる天則の為である。

斯うみてくると、悪人になる原因は吾々から見ると霊の曇りで、立派な病人なのである。勿論大悪人程、浄化も猛烈であり、大苦痛が起り、大病人となるのは言う迄もない。処が霊に曇りが生ずるという事は、本守護神に力、即ち光が足りないからで、それを免れるには宗教によらなくてはならないという訳になる。従って信仰に入り、常に神に向っていれば、霊線を通じて神の光が魂に注入され、光が増えるから曇りが減るので、その為動物霊は苦しみ、居候の方は早速逃げ出すが、元からいる副守護神は縮んで了い、悪は出来なくなるのである。此理によってみても、神に手を合わさない人は、何時如何なる時、何かの動機に触れて悪人になるかも分らない危険があるのだから、無信仰者は危険人物といってもいいので、現代社会は此危険人物が多いかは、右によっても分るであろう。全く社会悪が一向減らないのも右の理に因るのである。従って現在如何に善人であっても無信仰者である限り、真の善人ではなく、言わば悪人の素質を有っている善人に過ぎないので、無信仰者には絶対気は赦せないのである。昔から人を見たら泥棒と思えというのは、無信仰者を指したものであろう。

処が右のような簡単な理屈でさえ、今の偉い人も政府当局者も、全然判らない結果、宗教を否定し、法のみに頼って悪をなくそうとするのであるから如何に間違っているかが分るであろう。

(栄光百三十一号 昭和二十六年十一月二十一日)