次は美術館であるが、之は三階建、総延坪千坪位のもので、此様式が又問題である。何となれば之も大体コルベジュエ式ではあるが、美術館としての色彩を充分出した世界的のものにしたいからである。そうして其陳列の美術品であるが、之も量は固より質に於ては、世界最高峰を目指している。というのは成程米英仏等にも、それぞれ立派な博物館、美術館はあるにはあるが、何しろ陳列品は西洋の作品が殆んどであるに対し、本館は東洋美術に重点を置いている。此事は欧米の美術愛好家の意見もそうである如く、世界の美術としては何と言っても東洋が優っているので、近来欧米に於ても東洋美術の蒐集に腐心しているにみても明かである。そんな訳で彼等も数十年前から此処に目を付け、金に飽かして手に入れた物が、今日自国の美術館を賑わしているが、然し何といっても僅か数十年の短かい期間では、充実までにはゆかないので之が欧米識者の悩みとされている。処が幸いな事には、我日本には千数百年前から支那朝鮮は固より、日本独自の作品までも遺憾なく国中に蔵されており、それが分散的ではあるが、大いに意を強うする物がある。併し今の処殆んど死蔵の形であるのは遺憾ではあるが致し方あるまい。何しろ欧米と異い、今日迄の日本はそれを生かして、世に益すべき機関がなかったからである。而も支那朝鮮の美術品は現在本国には殆んどないとされている。というのは昔から幾度もの兵火を蒙って来た事とて、全部破壊焼尽されてをり、只僅かに発掘品が偶に出る位で、之が欧米人の手に入り、博物館、美術館に出陳されるという事である。
処が日本に於ては、千年以上前から支那朝鮮の名画名器を輸入したのは勿論、日本に於ても千三百年前推古朝時代已に仏教芸術を支那に学び、日本人独特の仏教美術を作り出し、其後凡ゆる美術品に亘って進歩発達し、名人巨匠の輩出と相俟って、多数の名品が作られ、天平、藤原、鎌倉、桃山、徳川、明治、大正期を経て今日に至ったのであるから、其長い期間に貯蔵された東洋美術の優秀品は実に夥しいものがある。而も昔から皇室をはじめ将軍、大名や近代に至っては財閥等が愛好珍重し、保存に努めて来た事とて、今日と雖もそれらの珍什名器は国中至る処に愛蔵されており、私が常にいう日本は世界の美術館なり、との言葉も宜なる哉というべきである。そんな訳で、今度私の造る美術館にしても、東洋美術の粋を集めて、世界各国愛好者の渇を医すと共に、日本人の文化的水準の高さを示す結果ともなり、好戦国民の汚名を拭う上にも至大な効果があるであろうし、尚完成の暁、外客誘致の国策にも、与って力ある事は誇称し得るのである。そうして右以外、今一つの重要事がある。それは今日、日本の美術家達が、古美術の傑作品を参考に見たいという、旺盛な意欲である。処がそれを満たすに足るべき施設は殆んどないと言ってもよかろう。只僅かに三都の博物館と、数箇所の私設美術館あるのみで、博物館は歴史的考古学的のものが主となっており、美術的には甚だ物足りないと共に、私設美術館に至っては、一種の財産保護手段ともいうべきもので、僅かに春秋二回短期間だけ特殊の人に見せる位で、誰でも見たい時に見られるという簡易な組織の美術館がないので、此美術館が出来たとしたら、今後我国文化の向上に、如何に役立つかは多言を要しないであろう。
右によっても分る如く、現在日本に数多ある処の珍什名器は、財閥や特殊階級の倉庫深く死蔵されているに対し、一方それに憧れている日本中の美術家や好事家も多数あるとしたら、双方を連繋する機関こそ、今後なくてはならないものである。此意味に於て何よりも美術品所蔵家の理解を得ると共に、安心して出陳出来るだけの設備の完備した美術館が大いに必要である。
以上長々とかいて来たが、此様な大きな事業を、私一人の手で達成しようとするのであるから、実に容易な業ではない。恐らく有史以来誰も試みた事のない大事業であろう。本来なれば政府の援助は無理としても、市や民間団体等から相当の支援を受けてもよかりそうなものだが、私はそれを嫌うのである。何故なればそうされると私の考え通り思い切って行れないからである。何しろ営利事業でない事と、余りに例のない大規模な新企画であってみれば、恰度美術家の製作品と同様、飽く迄私としての個性を発揮したいのである。
以上の如き此大事業に対し、其実際内容を知らないで、本教を兎や角言うジャーナリストもあるようだが、大いに考えて貰いたいのである。以上によっても分るだろうが、私は世界文化の為と、日本将来の為を思い黙々として努力して来たのであって、神助によって兎も角順調に進んで来た今日、満足には思っているが、此事業は私が行らないとしても、誰かが行らなければならない切実な国家的、否世界的事業であり、それが早ければ早い程、文化の向上に資する処大であろう。従って未知の人や関心を持つ限りの人々は、先ず実地をみて貰いたいのである。其場合懇切に案内もし、納得のゆくよう説明の労も惜しまないのである。
(栄光百三十二号 昭和二十六年十一月二十八日)