浄霊の発明的価値

浄霊という言葉は、歴史上今日迄なかった事は言う迄もない。勿論浄霊の言葉の意味は、信者は知り抜いているが、大体人間というものは、見えざる霊と見ゆる体の一致によって成立っているものであって病気の因は霊に曇りが生じ、それが体に映るのであるから、其曇りを除れば凡ての病気は治って了うのである。之は理屈ばかりではない。事実私の信者数十万人が、今迄何百万人の病気に苦しむ者を治したか知れないので、医学とは比べものにならない程の、驚異的効果を挙げているのであるから、之こそ世界的一大発見といっても、決して過言ではないのである。

人類史上今日迄、幾多の偉大なる発明発見はあったが、之と比較し得る程のものは、末だ嘗てなかった事は言うまでもない。何といっても此発見の価値は人間の生命の問題であって、之以上の重要なるものはないからである。勿論今日迄の人間が最も恐れていた病を、絶無にする事が可能であるとしたら、凡そ痴人の夢処か、全く空想以外の何物でもないと言えよう。若し仮りに、今日迄本当の医学が生れたとしたら、其時を期して人類から病は漸減し、人間の寿齢は平均百歳以上になっていなければならない筈である。処が事実はどうであろう。今以て人間は、病気という最大苦悩の桎梏(シッコク)から、脱け切れないでいる現状である。処が、此厳然なる事実に直面し乍らも、世界中の学者はどうにもならないで、相変らず唯物科学に偏した現代医学を、無二のものとして研究に耽っているばかりである。としたら吾々から見れば、彼等の熱心なる努力も、徒労以外の何物でもないと言えよう。そうして最も遺憾に思う事は、若しも此発見発明が、科学者の門から発表されたとしたら、忽ち全世界の学界に、一大センセーションを捲き起し、一挙にして医学は革命されて了うであろうし、全人類は救世的一大景仰の的とされる事も、間違いないであろう。

処が意外にも、私という一宗教家の発見発明であるが為、之を認識させるには一大難関にぶっつかる事である。それは仮りに現在日本の識者を見本としても分るが如く、彼等が此論文を読んだとしても、容易に信じられない処か、頭から迷信と片附けて了うに違いあるまい。何よりも浄霊による治病成績を見ても聞いても、体験者から直接聞かされても、彼等は心に止むる事なく、馬耳東風であろう。彼等の此頑迷な態度こそ、全く救うべからざる程の科学迷信の虜となっているからである。原因は勿論宗教とか神とかいう、目に見えざるものは、凡べて迷信と思い込んでいるからで、其結果偉大なる発明発見と雖も、科学者以外から出る筈はないと決めて了っているからであって、其根強さは、恰度邪教迷者と何等択ぶ処はあるまい。従って、此堅固な迷信の牙城を打ち破る事こそ、人類を救う唯一の条件である。といって何れは彼等と雖も、飜然として我軍門に降るのは必定であって、それは只時の問題でしかあるまい。何となれば、現に今日真に目醒めた人々や、今や目覚めんとしている人々が、日に月に増えつつあるにみて明かである。只一日も早く此一大迷蒙に目醒めさせ、病なき社会を実現すべく、吾等は燃ゆるが如き熱意を以って、進みつつあるのである。

以上の意味によって、唯物的なるが故に盲目的に信じ、唯心的なるが故に眼を蔽う其頑くなな思想に向って、一大警鐘を鳴らすのである。

(栄光百二十三号 昭和二十六年九月二十六日)