現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。
故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気となって、肉体へ現はれるのである。
西洋医学は、肉体へ現はれたる病気を、薬剤や器械で治さうとするのである。然し、よしそれで治った所で、精霊の曇を払拭されない限り、再び肉体へ病気が現はれるのは当然である。之も社会事業と等しく結果のみを治す膏薬張式で根原を無視した行き方である。一時的方法でしかないのである。
観音の光。それはラジュウムより、何十層倍の価値ある光であるから、精霊がそれを浴びるや曇りは解けてゆく、精霊の曇りが無くなれば。肉体の病は治るに決まってゐる。
観音は救主であられる。罪を赦す御方である。祖先の罪穢による、精霊の曇りを払拭するといふ事は、その罪穢を赦す事である。是が根本的の治病法であるから、再発の憂ひが無いのである。否益々健康になってゆくのは少しも不思議ではないのである。
斯の様に精霊の曇りが浄められるといふ事は、遡れば、祖先の罪が赦されるといふ事になるから、地獄界に苦しんでゐた祖霊達が向上して、天国へ救はれる事になるので、その信仰の徳は予測出来ない程の洪大無辺なものである。
(観音運動 昭和十年九月十五日)