迷信にも色々あるが、一寸人の気の付かない迷信に、此嘘吐き迷信がある。つまり嘘を吐いても、巧くゆく事と思う迷信で、現代の人間は実によく嘘を吐く、大抵の人は最早馴れっこになって了って、不知不識嘘を吐いても平気である。つまり嘘が身に付いて了って全然気が付かないのであろう。部下などがそういう時、私はいつも注意を与えるが、御当人は仲々分らないで、嘘と本当との区別さへつかない者が多い。そこでよく説明してやると、どうやら嘘である事が判って、謝るという訳である。此様に嘘と本当との限界が分り難い程、今の人間は嘘が当り前になっている。然し之等は小さい嘘で論ずるに足りないが、それ処ではなく、意識的、計画的に見逃せない嘘を吐く者が多いので、今それをかいてみよう。
先ず大にしては政治家の嘘である。余り自信がないのに、斯ういう政策を行うとか、斯ういう計画を立てるとかいって、堂々宣言して置き乍ら、空手形に終り、責任を問われる事がよくある。そうかと思うと議員が選挙人に対する約束の不実行もよくあるが、之なども当然のように心得ている。又教育家なども口では立派な事を言い乍ら、其行為が全然反対の人も多いし、又新聞記事に嘘の多い事も常識のようになっている。勿論誇大広告などもそうである。処が一番厄介な問題は今日の税金であるが、之なども取る方と取られる方とは、嘘の吐き比べで、ややっこしい不快な事夥しい。之もよく知られている事だが昔から花柳界の女等は、子供の時から嘘を勉強して、卒業すればそれで一人前になるという事である。其他お医者さんはお医者さんで、治らないと知り乍ら、治るといったりするが、之等も嘘を吐かないと飯が食えないからであろう。処が嘘も方便と言って、坊さんが嘘を吐く事もよくあるが、之等もどうかと思うのである。又昔から商売の掛引などと言って、商人の嘘も大変なものだが、之は天下御免の嘘となっている。マァーザットかいても此位であるから、全く世の中は嘘で固まっているといってもいい位である。特に日本人の嘘の多い事は世界的とされているのだが、余り名誉ではあるまい。然し単に嘘と言っても大した害のないものと、悪質な嘘とがある。悪質な嘘の中でも、斯ういうのは困りものだ。それは罪を裁く役人の嘘である。最近新聞を賑わした三鷹事件の如き、多数の死刑囚が一人を残して悉く無罪となった事や、二人で殺人罪になった無期徒刑囚が、三年経った今日、別に自分から名乗り出た真犯人が現われたり、大阪の大造事件で、懲役五年の検事の求刑を受けた二人の者が、無罪になったりする事など近頃よくある話だが、之などは全く検事の嘘による被害者である。
斯ういう事を聞くと、検事とも曰われる人が、そんなに嘘を吐く筈がないと思うであろうが、私の経験によっても決してない事はない。というのは昨年の事件当時から、現在の公判に到る迄、嘘によって罪を作ろうとするその熱心は大変なものである。其度毎に私は熟々思う事は斯う迄して罪なき人民に、罪を被せるべく努力するのは、何の為であるかという疑問である。実に不可解千万で、理屈のつけようがないのである。又検察官という職責からいっても、悪人を罪にするのは至当であるが、善人を罪にするなどは到底信じられない話であるが、事実は事実であるからどうしようもないので、只世間に余り知られていないだけの話である。成程最初から有罪か無罪の判別は仲々難かしいであろうが、少し調べてみれば兇悪犯罪でない限り白か黒かは大体判る筈である。何となれば一生懸命罪を作ろうとする行為そのものが、既に罪のない事をよく証明しているからである。
話は横道へ外れたが、つまり嘘を吐きたがるというその本心は、全く嘘をついても知れずに済むと思うからで、実は甘いものである。成程世の中に神様がないとしたら、それに違いないから、巧く嘘を吐く程悧口という事になるが、事実は大違いだ。何となれば神様は厳然と御座るのだから、どんなに巧く瞞しても、それは一時的で必ず暴露するに決っている。だから暴れたが最後恥を掻き、信用を失い、制裁を受け、凡そ初めの目的とは逆になるから、差引大損する事となるに違いない。只神様が目に見えないから無いと思うだけで、恰度野蛮人が空気は見えないから、無いと思うと同様で、此点野蛮人のレベルと等しい訳である。何と情ない文化人ではなかろうか、従って此理を知ったら、何程立派な働きを有っていても駄目であるのは当り前で、特に人の善悪を裁くなどという神聖な職責にある人達としたら、大いに其点に留意しなければならないのである。だからそういう人こそ、人を裁き乍ら、遂には御自分が神様に裁れる事になるのである。此様な判り切った事が信じられないとしたら、全く嘘吐きの迷信に嵌まり込んでいるからで、従って吾等の大いに望む処は、人を裁く司法官悉くは正しい宗教の信者になり、神の実在を知る事であって、何よりもアメリカの裁判官が人情味があり、比較的裁判が公平であるという事は、全く同国人に基督者が多い為であるのは、一点の疑い得ない事実である。
(栄光百二十号 昭和二十六年九月五日)