病気礼讃の弁

今日よく病気に対する心構えとして、闘病という言葉を使うが、吾々からみれば之程間違った言葉はない。全く病気の根本原因を知らない為とは曰い乍ら、吾々からいえば愛病といいたい位である。つまり病は愛すべきもの、有難いもの、感謝すべきものと思うのが本当であるからである。処が医学に於ては、一度病気に罹るや悪い意味に考え、恰度悪魔が体内に入り込んだかのように心配する。よく病魔という言葉を使うが、其意味であろうし、又闘病という文字も、敵が体内に侵入したので、味方の肉体と、大いに戦うという意味でもあろうから、実に可笑しな話である。

処が吾々の方では、人体には始終毒素が溜り易く、それが或程度を越えると、活動に支障を及ぼすから、其毒素を排除すべく自然作用が起り、働くのに差支えのない程度に清めてくれる。それで健康体になるのであるが其毒素排除には幾分の苦痛が伴うので、其苦痛を称して病気といったのだから、病気程結構なものはない訳で、全く神様が人間の健康を保持せんが為、御造りになった事がよく分るのである。

何よりも病気の際痰や洟が出たり、盗汗をかいたり、下痢、嘔吐、痛み、痒み等の症状にみても、汚ないものが色々の形になって出る事が分るのである。だから其場合苦痛を有難いと思って、少し我慢さえすれば、割合楽に相済み、後は体内が綺麗に掃除されるから、健康は益々良くなるのである。以上の如く、人間にとって之程結構なのもはないとしたら、病気になったら喜んで大いに祝うべしだ。だから吾々は寒冒でも、結核でも、伝染病でも結構、大いにお出で下さいと歓迎する位だ。そう思っている所為か皮肉にも病気というお客様は、仲々来てくれないので一寸寂しい気がするが、之も嬉しい淋しさであるから又有難いとも言える。

斯ういう訳だから、吾々が頂いている此幸福さは、一般人は想像もつかないであろう。だから一人でも多くの人に、こんな有難い事を教えてやりたいと常に思っているのが、本教数十万信徒の共通観念であろう。処が世間一般を見てみるとどうであろう。風邪を引かないようにと言って、年が年中ビクビクもので、結核は恐い、伝染病に罹ったら大変だ、外出から帰ったら必ず含漱しろ、手を洗えなどと面倒臭い事を言ったり、マスクを掛けさしたり、実に五月蝿い話である。政府は政府で、毎年何百億の無駄な金を使って大騒ぎをしたり、お医者はお医者で、年中七難しい顔をして、顕微鏡と首ッ引きであったりしている有様は、吾々からみれば可哀想処か、馬鹿々々しくてお話にならないのである。此様な訳で吾々と世間との違いさはスッポンとお月様処ではない、何と言っていいか言葉は見付からない位である。

そこで考えられる事は本教の真髄が一般に判ったとしたら、誰も彼も片ッ端から入って来るに違いない。何れは日本人全部が本教信者となるのは太鼓判を捺しても間違いあるまい。そうなった暁こそ、本教のモットーである病貧争絶無の世界じゃない、日本が如実に実現するであろうし、それを見た世界各国の人達はこりゃ大変だと、みんな揃って入信する事になるであろうから、茲に到って愈々地上天国出現の運びとなるのは言う迄もない。それを楽しみに吾々は神様に御委せしつつ、コツコツ行ってゆこうではないか。

(栄光百十二号 昭和二十六年七月十一日)