天国は美の世界

神様の御目標は、真善美完き理想世界を御造りになるのである事は、本教信者はよく知っている処である。としたら其反対である悪魔の方の目標は、言わずと知れた偽悪醜である。今それを解釈してみるが、偽は勿論文字通りであり、悪も説明の要はないが、茲に言いたいのは醜の一字である。

処が世の中には、往々間違えている事がある。というのは醜が真善に附随している例で、之を見た人達は、反って讃仰の的とさえする場合が往々ある。之を判り易くいえば粗衣粗食、茅屋に住み、最低生活をし乍ら、世の為人の為を思って、善事を行っている者も昔から少なくないのである。成程境遇上そうしなければ、生きてゆかれないとしたら、止むを得ないとしても、それ程にしなくとも、差支えない境遇にあり乍ら好んで其様な生活をするのはどうも面白くないと思うが、中には修養の手段として特に禁欲生活をする宗教家も、今迄沢山あったが、斯ういう人は自分もそれが立派な方法であると思い、世人もそれを見て偉い人と思うのであるが、実をいうと此考え方は本当ではないのである。何となれば肝腎な美というものを無視しているからで、つまり真善醜である訳である。此意味に於て人間の衣食住は、分相応を越えない限り、出来るだけ美しくすべきで、之が神様の御意志に叶うのである。何よりも美は自分一人のみの満足ではなく、他人の眼にも快感を与えるから、一種の善行とも言えるのである。第一社会が高度の文明化する程、凡ゆる物は美しくなるのが本当である。考えてもみるがいい、蕃人生活には殆んど美がないではないか。之にみても文化の進歩とは、一面美の進歩といってもよかろう。

勿論個人の場合、男性と雖も見る人に快感を与えるべく適当の美しさを保つべきで、まして女性にあっては、より美しくするよう心掛けるべきである。尤も女性にそんな事をいうのは、反って余計な御世話かも知れないが、マァーそういう理屈であろう。又一家の部屋内もそうで、天井の蜘蛛の巣などにも常に注意を払い、座敷は塵一つないようよく掃き清め、目障りな物は早く片付けると共に、調度、器物なども行儀よく、キチンとして置くようにすれば、第一家族の者は勿論、人が来ても気持よく自然尊敬の念が湧くもので、其家の主人の値打も上るのである。又家の外廓も敢えて金をかけなくともいいが、努めて修理を怠らず清潔にすれば、道行く人にも快感を与えるばかりか、観光国策にも好影響を与える訳である。それに就て彼の瑞西(スイス)の話であるが同国は狭い為もあろうが、何しろ町も公園も塵一つない程掃除がよく行届き、実に気持がいいと言われている。此国の観光客の多いのも、それが大いに原因しているという事で、之等も他山の石として、大いに参考としてよかろう。

以上によってみても、吾々日本人は、大いに美の観念を養う必要があろう。之によって、小は個人は元より、大にして社会国家に対しても、意想外の好影響を与える事になろう。処がそればかりではない。美の環境によって、社会人心も美しくなるから犯罪や忌わしい事などもずっと減るであろうから、此事だけでも地上天国の一因ともなるであろう。最後に私の事をかいてみるが、私は若い時分から美に関した事が好きで、随分貧乏に苦しみ乍らも、小さな空地へ花を作ったり、暇さえあれば絵を描いたり、出来るだけ博物館や展覧会などへ行き、春は花に楽しみ、秋は紅葉を愛でなどしたものである。そうして今は神様の御蔭で自然に生活も豊かになり、美を楽しむ事も思うように出来ると共に、それが御神業の一助ともなるのであるが、之を知らない第三者から見ると、私の生活は贅沢のように見られるが、之も致し方ないであろう。いつもいう通り、昔から宗教の開祖などと言えば、貧しい生活をし乍ら難行苦行をし教を弘通した事などと比較して、余りに異っているので変に思うであろうが、実はその時代は夜の世界であったから、宗教と雖も地獄にあり乍ら信仰を弘めたのである。処が愈々時期転換、昼の世界となりつつある今日、反対な天国に住し乍らの救いであるから、其点深く考えなければならないのである。

最後に言いたい事は、彼の共産主義であるが、之も目標は地上天国を造るのだそうだが、他の事は別としても、同主義者に限って、美の観念は些かもない事である。としたら同主義が美を採り入れない限り、本当のものでない事が分るであろう。

(栄光百十二号 昭和二十六年七月十一日)